P.249

9)霊界は心情の世界

霊界がどのような所か? 霊界について話せば精神病者だと言うために、話をしないようにします。しかし、少しだけ話しましょう。霊界がどんな世界か? 神様の心情と同級に立つことができる心情を持てば、何でも可能な、そのような場所であるのです。これからムーニーが何千万名になっても「おお! おまえたち全部このような新しい服に着替えろ」と言えば、サッと新しい服に全部着替えることができます。その次に、「バンケットの場所、これこれこういう場所、現れろ」と言えば、いっぺんにそのようになるのです。テーブルは金の飾り、銀の飾りで五色燦然とつくられ、また、そこにある椅子もそうなるだろうし、そこに座るすべての人たちは、歓喜に、喜びに、愛に酔って踊りを踊るでしょう。千年を踊っても喜ぶことができる所です。

ムーニーたちは、理想のために苦労をしますが、苦労をすればするほど、高い理想を皆成就しても余りうるのです。自分の相対が角が生えて不細工でも…。何の話か分かりますか?(はい)。そのような世の中を歓迎するのです。この世を全部…。私とお母さんが行くそのような行列に、皆さんは相対と二人でついていきたくないですか?(ついていきたいです)。それはたやすくないのです。

心情の世界は、無限な幸福の世界です。しかし、その下では、千段万段の訓練の階段を踏んで、教育を受けなければなりません。無限の試練を受けていきながら、一段階、一段階、何億万年もかかって行かなければならないのです。誰でもそのような運命の歩みを行くべきなのです。アメリカ人や、東洋人や、大統領や、世の中の誰もが皆このような歩みを…。自分のために涙を流す人ではなく、人のために涙を流す人でなければなりません。

それゆえ、まごまごしないで「さあ、しろ。私は死ぬ。死んでも行く。さあ、しろ。勝手にしろ。この心情の中で死ぬ」と立ち向かう場合には、「おまえが死んでも、私の心情が生きている限り、私は殺せない。私は霊界にこの心情を持っていき、接ぎ木するだろう」と言いながら、立ち向かう場合には、「おまえが神様の心情圏を侵犯する? サタンの心情圏を侵犯することはできるが、神様の心情圏を侵犯できないのが、天理の原則ではないか?」と神様の側から言うのです。

サタンは、サタン世界の心情圏は主管しますが、天の心情圏は主管することができないのです。殺す場合には、ここの神様のセンターである、愛の心情圏内で、きちっと一つになるというのです。それゆえ、この心は、サタン世界のどこへ行っても歓迎しないのです。いちばん嫌うのです。霊界を中心とした神様と、世の中を中心とした自分の心情を、はかりにかけているのです。相対基準ができるのです。

それで、ここでこの心情圏を中心として、サタン世界を心情的に同化させてきたとすれば、この世界全体が同化されると見るのです。そのようになれば、境界線がなく、天国の王国になり、東西南北一二の真珠門の中のどの真珠門を通っても、妨げる者がいないのです。皆歓迎するのです。分かりますか、何の話か? ここに入っても、こっちに出ることができ、こっちに入ったとしても、こっちに出ることができ、一二の門のどこでも自由に行くことができるのです。また、ここから一二の門のどこに行っても、全部…。一二の一二倍だから、一四四の門どこでも行くことができます。

なぜそのようになるか? 神様の心情、天国の心情を通じては、どこでも全部一つになることができ、どこでも全部和することができるためです。(板書されながら説明される)そのようになるようになれば、どのようになるか?その門に通ずることができる階級に立つ人は、「あ! 万歳! 神様いいです!」と言うのです。(笑い)ただついて回りたがり、全部が喜ぶのです。食べたいものがあれば、何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊び、したいことは思いのままにすることができます。この地球上で百年生きても感じられないことを、一瞬に暮らしも余りうるすべての幸福を、感謝を感じることができるのです。(一〇六\二二九)

世の中の「主義」というものは、良心基準において意識革命の段階になるかもしれませんが、これからは宿命的に勝利することができ、最終的に勝利することができるものが出てこなければなりません。それがまさに「心情」です。

これから、人類の心情を革命して、天道の基準を立てることができる新しい歴史観が出てこなければなりません。この歴史観を基準に、新しい人生観と世界観を創建することができる心情的な主義が出てこなければなりません。では、その主義は何の主義か? それは心情的な人生観、心情的な世界観、心情的な宇宙観を中心としたものであり、また、歴史が期待するのです。統一教会は、まさにこのようなことを教えてくれるのです。(一六\二五二)