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8)霊界の中心は愛

@ 霊界の空気は愛

霊界に行けばそうです。あの世は、どんな組織になっているかというと、あの世は空気が愛です、愛。愛が空気になっています。体と心が、このような地上で愛の感触を受けて和することができる要素として、体恤しなければなりません。体恤圏を作っておくようになれば、ただそのまま通じない所がないのです。愛を通じてです。神様と、木の樹液が、木の芽と木の根と通じるように通じるのです。神様が喜ぶのを自然に自分が感じるのです。東方に向かって、神様の宴が繰り広げられるということが分かるのです。そこに行くには、スーッと行くことができるのです。自由天地です。(一六二\二八七)

霊界には、愛のネジがあります。愛の機械があれば、軸があります。モーターで言えば、回るモーターの軸があります。軸があるのです。軸を全部解けば愛です、愛。

回るものも愛のために回るのです。その秩序の調和というものは、心配する必要がないというのです。本質的な愛を中心として生きていけば、その世界はどこに行っても皆、この細胞と同じです。(一二六\二四〇)

霊界には、呼吸することができる空気は、愛になっています。愛によりすべてが出て、愛として生き、愛として為になることができる愛の道理で和して、その内容を満たしてこそ、神様が今まで歴史時代に願った希望の実体を完成したという格を持つようになり、天国のどこへ行っても歓迎するのです。

それで、今皆さんの家庭が天国に行くことができる訓練所です。修練所なのです、修練所。そこには、おじいさん、おばあさんのような人も暮らします。拡大すれば全く同じなのです。お母さん、お父さんの年齢級、自分の夫、妻の年齢級、息子娘の年齢級を拡大したものです。家庭で修練されたものを四方に拡大して為にすることができる愛の圏を持って生きる人は、天国に行くことができるのです。家庭は天国に直行することができる修練所です。ケープケネディーのように、人工衛星を飛ばすことができる基地のような所です。このように、愛の原子爆弾を、愛の衛星を撃つことができる基盤が、皆さんの家庭なのです。(一四三\七二)

A 霊界は愛中心の暮らし

あの世に行けば、そうだというのです。あの世では、霊人たちが愛を中心として暮らします。それゆえ、愛の福をたくさん分けてやれというのです。そこには涙が流れなければなりません。

人は、良かったり悪ければ、必ず涙が出るでしょう? 良いときも涙が出るでしょう? 笑うのと泣くのが何パーセント差がありますか? 笑うのは目を開けて笑いますが、泣くのは目を閉じて泣きます。笑うときあまりにも笑うと、涙が出ます。顔の形も別に差がありません。目一つの差です。泣くときは、目を閉じてこうして、笑うときは目を開けてこうしますが、それが何パーセント違いますか? 同様です。(二一二\一六六)

あの世に行っては…。これから、芸術だけ残ります。愛に対する詩を詠むことのできない人は落第です。何か女たちは、きれいな服を着たいでしょう? 男たちが黄色いチョゴリ、赤いチョゴリ、赤いチマを着て歩いてみなさい。どれほど(見る者の)運が悪いだろうか?(笑い)考えてみなさい。(男というものは)無愛想で、柱のようで、大らかで、どこかに持っていって立てておけば、千年万年経っても残ると言えるような思いがしなければ。(二一一\二四六)

宇宙の核、愛の核がどこにあるか? 愛の核があるのです。前にアメリカでイプシロン(Upsilon)という一つの素粒子を発見して、これから物質の意味で永遠の起源が…。これを「人間が入れないその何か」だと発表しました。それは実によくやったのです。霊界を自動的に公認すべき段階に入ってくるのです。それが新聞に出たでしょう、きのう?(はい)。

それは驚くべき事実です、その資料が。その何かが、科学的になければならないのに、それが一つの良い契機ではないかと見たのです。それゆえ、それが四次元世界の起源を備えたのです。自動的に物質の世界が限界線に来ることで、霊界が明らかになるのです。限界線があるのではないのです。ないのです。霊界と我々の心の中に限界がありますか?我々の心も霊界と同じなのです。その程度によって、全部同様の感覚があるために、霊物だというのです。

それゆえ、愛、宇宙の愛の核がどこか? それが必要なのです。理論的に全部収拾しなければならないのです。(八三\二〇九)

我々がこれから霊界に行くようになるときに、真の愛の力を持っていくら遠い所にいる人でも、瞬く間に会うことができ、いくら遠い所にいる人でも、愛のため訪ねていくときは、瞬く間に故郷に帰ることができるのだというのです。霊界という世界は、無限に膨大な世界であるために、何百万里、何千万里のこのような距離も、瞬く間に愛を中心として行き来することができる世界なのです。

愛は、最大の速度を持ったのです。これが、皆さんの体と心の統一的愛の基台を持てないときには、その世界と自分は関係ないのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、自分から始まるということをはっきりと知るべきなのです。(二一六\一九二)