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皆さんがよく知っているでしょうが、我々が、信仰の主体であられる神様を慕い敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧なのです。では、それ自体をどこから探すべきか? この問題が問題となるのです。
それは、どこから? 主体が確定していますが、自分が感じることができないというのです。我々がこの五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、その主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければならない、このようになるのです。
自分自体を中心として見るとき、自分という存在は、体と心があるのです。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。結局は、心を中心として調べなければならないのです。
今日、堕落した我々人間たちについて見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じか? その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。
一つの円形を描くというようになれば、水平線を引いて、ここから一度、二度としてずっと十字を描くことによって三六〇度の円形を描くことができます。一つの水平線を引いて、一つの垂直線を引くここから九〇度の分別の度数が定まるのと同様に、必ず我々の心が円形のような立場にあれば、これをどのように引くかというのが問題です。その水平線は、引く人によってその水平線の形態は各々違うのです。我々の顔が違うのと同様に、皆さんの本性も全部違うのです。
ここの〇度から三六〇度を引いていくには、必ず度数はこの基準を中心として、数が計算されていくのです。そのように三六〇度の形態の我々の心が、心の根本がこのような円形なら、その角度を測定する基準が全部違うということを我々は知るべきなのです。
全部同じではないのです。それは、なぜそうなのか? 我々の顔が違い、我々の趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。ある人は、このようになっていれば、ある人はこのようになっていて、それが全部違うのです。その度数を合わせなければならないという結論が出てきます。
そうするには、どのようにすべきか? 〇点の位置を探さなければなりません。〇点の位置がどこか? それがあるでしょう。皆さん自体に、その心の心性をこのように表示すれば、必ず〇点があるというのです。〇点があって、その〇点自体を水平線にするなら、その水平線を中心として、ある垂直線が引かれるでしょう。
天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。これが必ずあるのです。必ずあるということです。
我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、その〇点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、その〇点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器に〇点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのような〇点基準がなければならないのです。
では、〇点基準は、どんな位置か? ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、無我の境地とかいう言葉を使いますが、それはやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければならないのです。そのような基準になるようになれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあるのです。
それゆえ、心も見れば何というか、心の門があります。心門と言うでしょう? 心の門があるのです。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動する、このように見るのです。それゆえ、この門を通らずには、神がいれば神を中心として、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。この角度、方向が違うようになれば、これは作用しない、このように見るのです。人にはこのような心門があります。心の門があるのです。
皆さんが、祈祷をしてみれば分かるのです。祈祷をしてみればですね、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのと違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。皆さんもそうではないですか? 朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと違うのです。
そのように、我々の心の状態においても、感じるその基準が、我々が肉体的な感情を持って四季の季節の変化によって、相対的な面の感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。うまくいく時間、それは何かというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。そうではないですか? 神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ともにある基準までさえ合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤することができる道が生じうる、このように見るのです。
皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきか? 心を中心として、心を磨かなければなりません。心の状態を我々が探してみなければなりません。これが本来は、この基準が〇点であるべきなのに、堕落したために、これが一八〇度に来ているのです。この度数が〇点にあるべきなのに、勝手になっているのです、勝手に。それゆえ、これを回して、このように正常的に戻さなければなりません。(絵を描かれて語られる)
ところで、ある人はですね、〇点がここにあるのにもかかわらず、ここに来ているために、このように(時計の針の行く方向に)回って行くべきなのに、これの距離が近いために、この〇点を中心としてこのように動けば、マイナス的感度を感じうるのです。そうなれば、どのように考えるかというと、このように(時計の針が行く反対の方向)行こうと思うのです。そのように行けば、千年行ってもだめです、千年行っても。これは戻らなければならないのです。そのような現象が起こるのです。
今日の宗教も同じです。宗教も目的の時に対しては、終わりの日だ、終末だというのを、皆わきまえなければなりません。しかし、このように発展してきた宗教は、このように行けばいいのですが、この場に来てとどまっていれば、このように回ればいいのに、もし反対にここにいれば、この宗教は終わりの日になるようになれば、ぎゃあぎゃあとなるのです。
ある人は、角度と方向が違うために、その場に行こうとすれば、反対の道を行くようになる現象も起こるのです。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあるのです。これが全部このように混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。
このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあるのです。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」このように考えていますが、心自体も善ではないのです。堕落の結果によってなされたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心を持った人もおり、善の圏内の心を持った人もいます。千態万状の差で広がるのです。
それゆえ、いちばん重要なことが何かといえば、この〇度をどのように探すか、〇度を。〇度をどのように探すか? 心の門をどのように合わせるかという問題が、信仰生活で最も重要な問題ではないか、このように考えるようになるのです。それゆえ、皆さんが信仰過程でいつも注意すべきことは、心の門が開くときを知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。
それは、皆さんがいつも準備しなければならないのです。もしや、この時間が心の門に合う時間ではないか。あるいは、学生なら勉強するこの時間が、もしやそのような時ではないか。あるいは、自分が世の中を忘れて、楽しく遊ぶその時間が、そのような時間になることもあるのではないか。いつも随時探して合わせる生活態度が必要なのです。事実、またそうなのです。
それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうして天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
だんだん、だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるかというと、今まで感じられなかった新しい立体的な感じが来るのです。それが何だか分からず来るのです。
昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうか? この宇宙は、回っているのです。心も回るのです。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感度を感じるようになっているのです。
それが一年について見れば、四つの時、春夏秋冬がありますが、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当するのであり、昼は夏に該当するのであり、夕方は秋に該当するのであり、夜は冬に該当するのです。
このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです、一日の間に。また、朝なら朝について見ても、春のような季節もそうです。そこでも、春のような朝を感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じることができ、冬のようなものを感じることができるのです。大きなものは大きなものを中心として、単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。
我々の心もそれと同様なのです。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということを、皆さんが知るべきです。季節によって自分が春だ、春の季節だというのを知ればいいですが、分からないのです。また、夏の季節だというのが分かればいいですが、それが分からないのです。あるいは、秋だというのが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、時がどんな時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければならないのです。
そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるか? 皆さんは、大概そうではないですか? 我々の言葉に暗示という言葉あります。暗示という言葉があるでしょう? 暗示! それが何の言葉かというと、自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀に留まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいきましたが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を見るようになるとき、その心の門が他のものとして…。その事実を通じて、内々に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。
実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言うのに「ああ! 何かを悟らせるものだ。このような事実が、だんだん、だんだん多くなるのです。
この段階を過ぎるようになれば、どんな形態が起こるかというと、夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。夢うつつの間に…。パウロのような男も、夢うつつの間に第三の天を体験したのです。夢のようでもあり、夢でないようでもあり、夢の中にいるのか、事実の中にいるのか…。横で誰かが話すのを皆聞きながら、三分の二はキャッチしながら、夢うつつの間にそのような現象であるとか、あるいは声であるとかいうもの、この五官で感じることができる、そのような感覚が来るのを感じるようになるのです。
そのようなことを何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなげるために現れるのかということを、科学的な面でデーターを出せというのです。一生の間、毎日、毎日その結果がどのようになるか…。必ずその結果が現れるのです。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、百パーセント的中するのです。そんな体験があるでしょう。
夢うつつの間に、誰かと話しているのに、ある人なら人、物なら物が、その夢の中に因縁づけられていますが、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌がまさに夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌がその歌だった、こんな事実が起こるのです。これは何を言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあるでしょう、音叉。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを限りなく貴く思わなければなりません。
そうなれば、どのようになるかというとですね…。神様がいるなら、その神様がどこに現れるか? 空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。それゆえ、自分の心と自分が二つであるのが分かります。他の存在であることが分かるのです。皆さんは、そんなことを感じられないでしょう? なぜそうなのかというと、心がまだ存在性を確立できないためにそうなのであって、体に引きずり回される人になったためにそうなのであって、その心が存在性を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されるようになれば、それは必ず異なるのです。
次元が高くなるようになれば、とどろく…。祈祷をするようになれば、心と話すのです、心と。共鳴する現象が起こるのです。これは、次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。いちばん最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか? いつもお腹の空いた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるか? そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何か? 自分がいつも主体になるとか、対象になるのです。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。自分がいつも探しているという事実はそれなのです。
それゆえ、主体となりうる存在が現れれば、いっぺんに分かるのです。あるいは、対象的な存在が現れれば、いっぺんに分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、いっぺんに分かるのです。やたらにただ心が嬉しくて行くのです。それを心波と言うでしょう? 心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか? 皆さんを見るようになると、肉の商売をする人は、肉屋の臭いがするでしょう? そうではないですか? 布(生地)の商売をする人は、布の臭いがします、臭いが。臭いがするのです。皆さんの体からも臭いがするのと同様に、心の臭いがするのです。その心の臭いを嗅ぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。
我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触する、このように考えるのです。それで、見えない電波のようなものを発射して、相対的対象を探しているという生活…。事実そうなのです。自分の心は、こちら側で考えようとしても、拒絶するのです。磁石の方向性と同様に、プラスとマイナス…。このように行っても「あっ!」と言って、そのような作用を悟ることができる段階に入るのです。このようなことを、皆さんが考えなければなりません。
それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分とともに関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのか? 堕落は何かというと、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、本然の神に対する関係を、全部切断してしまったのです。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が、これを接続させることができる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ、関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度を持たない限り、この環境は開拓されえないのです。これは最も理論的なのです。
それゆえ、皆さんが全部何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、今日は良いことがある」というのが分かるのです。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」これではないのです。それを探さなければならないのです。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆれ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすということを、我々が知ることができるのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
その段階が高くなれば、どのようなことが起こるか? その次には、啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものは、我々が分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければならないのです。何かを教えてくれるときも、教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれるのです。良い春の日を迎えて、鹿一対が小川のほとりでわき水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのようなすべての幻想が繰り広げられるのです。
そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事なのです。なぜそうすべきか? 我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面を持ちましたが、それ自体は、でこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。だから、全部違うのです。これを全部より分けようとするので、そのようなことをしなければならないのです、いろいろ。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をせざるをえないのです。
啓示の段階を過ぎるようになれば、黙示段階です。皆さん、黙示録があるでしょう? 一日中霊界に入って体験をするとか、あの世の世界がどうだとか…。全部そのような世界までつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができるのです。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることができない、それゆえ、体験を持たない信仰者は、信じることができない、このように見るのです。それゆえ、体恤的な信仰がどれほど高貴かということを皆さんが知って、これを啓発していかなければなりません。
我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧に接したような力が訪ねて入ってくるようになれば、我々の意識より強い力が入ってくるために、それは他の世界の意識です。超自然的、超人的な意識的な感情が訪ねて入るようになれば、我々の体、この肉身というものが、堕落性を持っているために、必ず本然の心性、本然の神様の神性とは反発するようになります。
それゆえ、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化されうる立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力もいっぺんにスッと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。それゆえ、そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
このような役事を絶えずするようになれば、どうなるかというと、この体が、肉性というものが、堕落性それ自体が全部純化されて、自然に百パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることを皆受けながらも、寸分違わないのです。分からないのです。
このような現象の過程を経て、純化されうる立場まで上がらなければならないのです。その過程で、いろいろ段階的現象が起こるのです。暗示とか、夢のお告げとか、啓示とか、指示とかいう、このような過程を皆さんが経なければならないのです。
皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです、皆さんの心が。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、叱りの言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。うっかり過ったら、これは狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らないといけないということを、皆さんは知るべきです。
このような体恤的信仰を必ず持たなければなりません。その体恤的信仰を持って、心で感じたことを、体恤したことを持って、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要なことであることを、皆さんは知るべきです。
では、このような境地に入るには、どのようにすべきか? 大概、我々人を見るようになると、二つの種類です。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人、また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、霊的だ、知的だと言うのです。霊的な面の人、知的な面の人。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていく種類であり、もう一つは入ってくる種類です。この二つの種類があるのです。
そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。「ああ、その、祈祷が何で必要か? 天のお父様、天のお父様という言葉をどうして言うのか?」実感がわかないのです。それをじっと考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるようで、このような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前にやたらに喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、ご飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいるのです。
そのような感度が違うのです。たいてい霊的な運動において、革命的な運動をすることができる人は、どのような人か? 知性的な人はできません。私はそう思います。たいてい信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。
世の中がどうであれ、感じるままにしてみるのです。神様がしろと言ったからしてみるのです。やってみたら、それが実践する環境に伯仲するそのようなことが起こるのです。こうすることによって、偉大な人物として登場することができるということも起こるのです。パウロのような人も、知性的な人なのです。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的にこのように爆発的な感じの道がある、ということを感じたために、全部否定してそれを尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界の偉大な指導の役割を果たすことができないということを、我々はよく見ます。ここの朴長老のような人は、愚鈍な人なのです。顔つきも愚鈍なように見えるのです。見れば顔も人情深いように見えます。それは皆、何かがあるのです。そのような二種類があります。
我々人は、この二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。たいてい霊的に感じる人は、霊的に大きいですが、真理の面では細くとがっているのです。これが違います。初めは太いのですが、先が細くとがれば、これは始終如一(初めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。あるときには、必ず転がり落ちるのです。また、真理は大きいが、霊的な面がこのように小さければ、これが永遠に行けないのです。それゆえ、これを調整する生活を、我々はしなければなりません。
祈祷と真理、霊的心霊と真理で礼拝せよという言葉があるのです。それは何かというと、平行を作って和する場に入れ。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきなのであり、真理の世界の中央に立って、中心的立場で左右に調整しうる人間にならなければならないのです。そのような人間にならなくては、完全な立場になることができないのです。
霊的にだけ強ければ、外的な面は欠如し、(板書されて語られる)このようにまっすぐに行くべきなのに、このように行くのです、このように。そういうことが分かるでしょう? 力で見ると、力の強い人に引かれていくのと同じだということです。真理的な面が強ければ、これが二つが合わさって行くべきなのに、左に行ってしまうというのです。このような問題が起こります。(七六\一二五)