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なぜ息子娘がいなければいけないのですか? 必ず愛がなければなりません。神様がいなければなりません。夫婦にならなければならず、男・女がいなければなりません。その次には、血が混合しなければなりません。神様の血、愛の血、縦的な血、横的な血が混合して生まれたのが後孫です。それゆえ、後孫を持たなくなれば、あの世に行っても、遊んで休むことができる場がないのです。
それで、夫妻が八〇になって、九〇になるまで、額を突き合わせて暮らしながら、幸福だと言いますか? 面白く暮らすことができません。息子の嫁がいなければならず、孫が皆いなければならないでしょう。息子の嫁は、自分たちが昔暮らしたように、夫妻どうし楽しく暮らすのですが、孫たちは自分たちが育ったそのときの…。おばあさん、おじいさんたちが、年が多くなれば、なぜしょっちゅう忘れますか? 赤ん坊になるのです。赤ん坊になるために、赤ん坊のお母さん、お父さんの役をするように、おばあさん、おじいさんの主人の役をしろと言うのです。それが悪いことではありません。
老人たちは、孫を連れていって抱かせてあげれば、それ以上の幸福がないのです。うちのお母さんもそうなのです、うちのお母さんも。この頃は、孫をどれほど愛するかしれません。自分の真の父母を産んだときは、その味がこちこちだったのに、孫の味を見たら、これは何と言いますか? 羊羹の形にです。羊羹のようなものを触れば、ゆらゆらとしてそうなのです。
それで、孫を持てなかった人は、霊界に行って天地の調和を成せず、東西南北に拍子を合わせられないのです。踊りを踊っても、お尻の踊り、胸の踊り、鼻の踊り、手の踊り、足の踊りを皆踊れないのです。一つだけ踊るでしょう。(笑い)動物園の熊の形でです。
それゆえ、これが皆理想的世界に拍子を合わせるために、春夏秋冬、上下前後左右をわきまえて、人間の奇妙な夫婦の暮らしの家庭の場面に詰め込んでおいたために、一つだけ欠如しても「私は嫌だ!」こういうのです。それは理解できますか?(はい)。
それで、「私は義理のお父さん、義理のお母さんが好きだ!」という女は手を挙げてみなさい、義理のお父さん、義理のお母さんが好きな女がいますか? いますか、いませんか? この頃の乙女たちは「義理のお母さん、義理のお父さん、手強い義理のお母さん、義理のお父さんを訪ねて仕えるのを願うのでございます」という人はいないでしょう。何十万名見て、そこに丸をつけろと言うようになれば、たぶん一つもないでしょう。我々統一教会の信者たちは、丸をつける女がいるかもしれません。嫁に行ったか(カンナ)と言って、カンナ(女)です。悪い意味の女ではありません。ワンナ(来たか)というのは、チャンガワンナ(婿になったか)ということです。カンナがあるからワンナと言うべきでしょう? 分かりますか?(一九七\三二)
一人で寝るときも、神様の愛の懐で寝て、「この夜は、本当に幸福な夜だ」と言いながら、笑いながら寝て、起きるときも「あ! きょうはどこかに行って伝道をして、私が先生に会うことができたら」寝ても覚めても…。いつ会うか分かりません。一二時ちょっとにそうでしょう、一時ちょっとにそうでしょう…。ここから回って、一歩ずつだけでももっと行けば、そこにいるはずなのに、それを知らないために、感謝して探して回るのです。何の話か分かりますか?
それゆえ、仕事をしてから「ああ、大変だ」という考えをする余地がないのです。「ああ、大変だ。眠れなくて疲れてだるい」という考える余地がないのです。そうすれば、霊界が開かれるのです。霊界が見えるのです。皆さんが目を開けて霊界を見、霊的にご飯を食べれば、一日ご飯を食べなくてもお腹が空かないのです。そのようなことが起こるのです。体が軽く、一日中走っても疲れないのです。
そのようなことを体験すれば、世の中が面白いのです。横的に、息子娘を産んでそうするために必要であって、事実上世の中にいる必要がないのです。あの世に家庭を連れて入らなければならないために、しかたなくこうしているのです。(九一\一七六)