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ある人たちは、霊界に行ってこそ、初めて先生の名を知って、先生にしがみついて生かしてくれと哀願するのです。そういうとき、先生がいちばん困るのです。先生は、すべきことを皆して、天の前に祈ってから、一旦一度線を引けば、再び振り返らないためです。
彼らはまた、なにがしの孫が教会に出てくれば、交代で「そいつはうまい」と誇るようになります。そうして、み旨に背いて離れていくようになれば、皆さんを讒訴するようになるのです。皆さんが、祈祷で霊界と通じてみれば分かるでしょうが、霊界では後孫たちを天の前に近く立てるために、どれほど努力しているかしれません。しかし、ここでは先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。
それゆえ、死んでみてこそ分かるのです。ここのあるおばあさんも、前に霊界に行ったら、原理のみ言を教えてくれと言ったというのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみなさい。しかし、死んで生き返ることができればいいですが、死ねば終わりなのです。ですから、人々は、統一教会の文先生が恐喝をしても、とてもすてきな恐喝をする、誰もできないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んでみろというのです。先生が何か言うことがなくて、このようなことを言っているのだと思いますか?(二二\三三八)
神様の最高の愛は、どこで発見するか? 王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、神様の最高の愛を占領しうる道があるということを、皆さんは知るべきです。そこでは、共産地下の監獄にいるときは、言葉を話さなくても霊界から伝道したのです。それで、先生のために命を覚悟して、どんなことでも皆できる弟子たちを持っていたのです。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくることができる道が、いくらでもあったというのです。そのような立場に神様が共にするのです。分かりますか、何の話か?
その立場で…。皆さんは、はったい粉を知らないでしょう。麦の粉で作る…。麦の粉で餅を作って、先生と分けて食べるために、身体検査をするから脇の下に隠して、ここ(またぐら)に隠して、昼食のとき先生の所に来て会って、それを分けて食べたりしました。そのとき食べた、そのひとかけらの餅というものは、今この世で億千万の金をやっても買えない、そのような価値の餅だということを皆さんは知るべきなのです。それは、自分の生命より貴いものです。
その人たちも、そのときのことを忘れられないと言い、今私もそのときのことを忘れられません。そのとき、どれほど一つになったか…。私もその人たちを知り、その人たちも先生がどうだということが皆分かります。夜にも分かり、朝にも分かり、このように暮らしたのです。私のために死ぬことがあれば、彼らは首をいくらでも差し出すのです。
また、先生も同じです。先生も、彼らのために命をかけていたのです。皆さんは、その段階に行けなかったのです。何の話か分かりますか? 三年になり、何がどうだと言っても、まだ行くべき道が、深い世界、愛の世界を体験するため、行くべき道が遠いことを皆さんは知るべきなのです。自分の命を奪われ、すべてを失っても、「これが世界でいちばんだ。いちばんだ」と言える体験圏内入ってこそ霊肉を初めて…。
そのような体験をしましたか? 行かなければならないのです。行くべき道が残っていることを知るべきなのです。そのような道を自ら進んで行き、そのような道を感謝して行って、そのようなことを消化して余るというそこで、自分自ら霊と肉が統一されて、天の愛に接触すべきものが残っているのにもかかわらず、皆さんは、今行きかけてやめて、何がどうだと言って、「私が統一教会について皆知っているけれど」と言いますが、違うのです。
その道を行けなければ、霊界に言って先生と分かれるのです。先生は、他の世界にいて、皆さんはその下で「ああ」と言うのです。行ってみなさい、私が嘘を言ったか、行ってみなさい。死ねば皆分かるでしょう。
それが。ああ、嘘のようなのに…。知りたければ、すぐに死んでみなさい。そうだといって、死んではいけません。(笑われる)死ねば生きて来る道がないために、大騒ぎなのです。そのときになって事実なら、自分が準備できなければどうしますか。帰ってくることができないのです。ですから、信じて、信じて準備しなければならないのです。(拍手)私が、嘘を言う人か、本当のことを言う人か、信じるなら信じて、信じないなら信じず、皆さんの勝手にしなさい。何の話か分かりますか? それを信じますか? どちらですか? 信じるという人がいれば、どれ、手を挙げてみなさい。
皆さんが信じるなら、それをそのまま行わなければなりませんか。行わなくていいですか?(行わなければなりません)。先生の心情を皆さんが体験して「おまえはこのようにすれば、間違いなくこのようになる」というとおり、事実を全部消化しようとすれば、そのようになるのです。そうしなさい。(九一\一七五)