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@ 死が差し迫ったとき
人生の勝敗は、何十年の期間について決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。
我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の一〇か月という期間は、出生する一瞬のための準備期間であるのです。ところで、一〇か月間、いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は、悲運の運命を迎えるようになるのです。
一〇か月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾るためです。言い換えれば、出生を見通す目的の一瞬のために、腹中時代があるのです。それゆえ、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤るようになれば、悲運の結果にならざるをえないのです。(三一\一八五)
この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体を持って、今まで因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。
その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去を持ったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜が溢れ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。
このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そうできる過去を持った人は、必ず民族が従ってくることができる因縁を持った人であり、世界万民がついてこざるをえない因縁を残した人だと見ることができるのです。
では、それがどのような事情であるかを考えてみましょう。ある民族に当面した問題を解決することができない悲惨で非情な時があるとき、その問題を自分が責任を持って解決するために、命をかけてそこにぶつかったときがあったなら、それはその過ぎ去ったことで忘れられない一時であるでしょう。
生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命を皆捧げて、彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかったときがあったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れうるということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄に讃えられた聖なる時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮できないようになっています。
善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になりうるのです。我々の原理で、天地のすべての存在は、与えて受ける因縁を経なければならないというのと同じです。
過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを皆与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝きうる過去でしょう。
そのような過去を懐かしがりながら、民族を思うようになるとき、希望の民族はこのような民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がそのような過去を懐かしがるようになるとき、人のために犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下すことができるのです。そうして、「私がそれのために戦ってきた過去があるために、必然的にそうすることができる未来がなければならない」という内容を持って、神様の前に行くというとき、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になるのです。これを皆さんが知るべきです。
聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってあるようにしようとした人です。
凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明は何か? それは、自分のためのものではなく、希望の民族を描き出すことができるのです。それゆえに希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。
皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみるようになるとき、一年はこのように行き、一年はあのように行くだろう、あるいは一〇年はこのように行き、一〇年はあのように行くだろうと言って、自分なりに自分の一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。(三一\三〇八)
皆さんが「七〇になっても私はこのように行く」ということを一度考えてみましたか?「年が八〇になって死ぬ瞬間にも、私はこのように行く」ということを考えてみましたか?(はい)。死ぬ場でも、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをし、これからもこのようなことをすることができる私が死ぬが、おまえたちが代わりにこれをしてくれ」と言える証拠物を提示できなければなりません。
それを言葉だけで言ってはいけません。言葉だけ言ってはいけないのです。ですから、どうぞ死ねというのです。(笑い)それで、彼が死んだあとに人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」そういうように言えなければなりません。そうできますか、皆さん?(はい)。(七三\一一六)
A 霊界に入るとき
我々人間たちの暮らす生活を見ると、生まれて同じ生活をします、同じ生活。転がっていっていますが、これがだんだん弱くなるか、だんだん強くなるか? 皆さんは、そのような生活をしているのです。
自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが一〇年になり、二〇年になり、三〇年の生涯路程を経て、五〇、六〇、七〇、八〇年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなるというのです。これが問題です。作用すればだんだん小さくなるようになっています。自然力学世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さくなるのです。
それゆえ、入力、入ってくる力、電気で言えば入ってくる力が、どのようなモーターを回しても、作用をしていくときには小さくなるのです。ここには、必ず消耗が起こるのです。
さあ、このように見るとき、我々は一生の間、停止していることができません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。さあ、動くのにおいては、正しく動くか、間違って動くか? いろいろあるでしょう。
では、人間が行くべき、自分が転がっていくべき方向性がどんなものか? どの方向に行くのか? それも知らずに転がるというのです。そはどれほど危険千万ですか? これがどこに行ってぶつかるか、岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれない立場で転がっていく生活をするというときに、それがどれほど危険千万なことか? どれほど不幸なことか? どれほど不安定なことか? これが問題なのです。
霊界に入るようになれば、今日我々人間たちが、距離と時間圏内の内容を持って測定したすべてをもっては、相関関係もなすことができないというのです。その世界は、時空を超越した世界なのです。(一四一\二七〇)
霊界に行くようになればそうです。霊界に行くようになればどうか? 皆さんの心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準があるために、いちばん最初にあの世に行くときはですね、今祝福された人たちも、あるときは分かれます。分かれるのです。
なぜ? 心霊の程度が全部違います。そこに行って、そこであまりにも会いたくなれば、移るのです。忘れられないというと、それが愛を中心として移動するのです。愛を中心としては、移動が可能です。そうでなければ、そこに一度入った次には、出てこれないのです。(一六四\六二)
皆さんは、天国の何になりますか? 大使になりますか、その大使館で使いをする僕になりますか?(大使になります)。大使になるのが易しいですか?(易しくありません)。死ぬことがあれば、彼が先に死ななければならないのです。それは合っていますか? それを知るべきなのです。
ですから、そのような世界に向かって、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために、息が詰まって、窒息して、注射を打たれて酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動することができる、自由な神様の愛の圏に暮らすことができる皆さんになりますか? ここはこれのために、これは世界のためになるべきであるために、これが生涯の行く道です。(板書されたものを差されて語られる)将来のために行くことが、生涯の行くべき必然的な道であることを、皆さんが知るべきです。
霊界があるということが分かりますか?(はい)。分かりますか、信じますか?(分かります)。どれほど確実に? この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界か? 神様が良いと言うことができる構想で、すべてが可能な世界です。
考えてみなさい。数多くの人が行っているのに、一瞬のうちに彼らに宴会をしても余りうる理想世界です。霊界に行っているすべての国の人々、何百億になるその人たちを集めて、一瞬のうちに宴会をしても余りうる、そのような理想世界です。何の話か分かりますか?(はい)。そのような世界、レバレンド・ムーンは、そのような世界に向かっていくのです。この世界を眺めていくのではないのです。ここからそこへ合わせていくのです。
私が今、その世界にサッと行くようになれば、私が死んで、その世界に再び生まれるようになればですね、その世界で誰が歓迎しようと出てくるか? どこで生まれるかというのです。どこに行くか? 天国の農村に行くか、漁村に行くか? どんな国に行くか? このように、このようになって、天国の王国に生まれるのです。王宮で出発するのです。先生が言ったことを見れば、そうすることができる可能性があるようですか? これがどうなるようですか? 考えてみなさい。(一〇七\五六)
皆さんは、天国に行くときに、礼物として包んでいくものがありますか? 霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいった風呂敷を開いておくことができるでしょうか?
皆さん、一度考えてみてください。薄汚いようなものを、開いておくことができるようですか? 統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか? 国のために、世界のためにと言いながら、それだけの苦労もしないで、どうして国のため、世界のためだと言いますか?「苦労をしたにはしましたが、私は苦労したと思いません」それでこそ同然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って風呂敷を開いておいて「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女たちが嫁に行くときは、一包みずつしていきながら、天国に行くときは、ひょいひょいと体だけ行くことができますか?(三二\七一)
皆さん自身が、自主性を持たない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、自分はそこで絶対的に必要な存在だ、と言うことができる自主性がなくては入れない所が天国です。
家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、やはり自分が絶対的に必要だと言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。(一九\四五)
皆さんがどのようになっても、行くべき所は行くべきです。死ぬときは、「先生、今最後の時になりました。よろしくお願いします」と言いながら、自分の夫や父母を呼ばずに、先生を呼ぶようになっています。そのような運命ですか? どうですか?(そうです)。先生は、それは嫌です。(笑い)「そう、先生!」と呼んで、どのようにしますか?「助けてください!」それを考えてみなさい。
霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点のようなものです。霊界はどれほど広大かしれません。時空を超越した無限の世界です。何億間マイルにもなります。そのように広大です。そして、「ある時代にこれこれこういう心情を持って、地上で生まれて暮らして、行った人がいれば、ここに直接出てきてみろ!」と言えば、瞬く間に現れます。そのように直感的感覚が現実化する世界です。
今、この瞬間に百万名のバンケット(banquet;宴会)をしたいと言えば、それも問題です。「私がこのような理想的な愛の喜びを、皆に分けたくて、晩餐会を持とうと思いますが、女はこのような服、男はこのような服を着て現れろ!」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願うとおりに現れます。そして、お腹がいっぱいになれば、残ったものはどのようになるか? 炊事場で洗いますか?(笑い)サッと消えます。(笑い)
そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を作る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、自分が願い愛の心情の基準に相応する、そのような家を自分が願うとおりに、いくらでも造ることができます。そのような世界に行きたいですか? 見たいですか?(はい)。
それを見たい人は、そこに入れません。そこに行って暮らしたい人が入ります。見たい人は見てから入ってくるということではないですか?(笑い)そこは死んで入っていく所なのに、死なないで再び帰ってくるということだから、見たいという人は、絶対に入ることができないのです。行きたい人でなければなりません。(二二四\一〇五)
B 霊界の手続に必要な証明書
現世において、宇宙の中心であるイエス様を考えるとき、皆さんは何をすればいいか。皆よく言います。贖罪のために十字架を担いで亡くなられたイエス様を考えれば、悔しくてたまらない」と。何が悔しいか。その証明書を見せてみろというのです。
皆さんは、最初にどこで証明書をもらってくるか。「私はこのようになった。このようなことをした。これが勝利の証明書だ」と言いうる証明書をです。そのような証明書を自分自身が使うことはできません。では、誰が使うか? 初めには、サタンが使います。神様は使うことができません。サタンから、その勝利の証明書を書いてもらわなければいけない、ということを知るべきです。
イエス様は、それはよく知っておられます。それで、三年の公生涯路程の出発のときに、四〇日間サタンを呼び出して証明書を書いてもらう戦いをされました。それが三大試練だったのです。サタンが言うには「あなたは、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるをえません。そうでなければ、私の活動舞台をすべて天の側にすぐに捧げなければならないためです」と言ったのです。
それゆえ、皆さんは、まずサタンに証明書を書いてもらい、イエス様の証明書をもらわなければならないのです。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければいけません。(一五\一二一)