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10)死の前での姿勢

イエス様が皆教えてくれました。死のうとする物は生き、生きようとする物は死ぬということです。これがどんな言葉か分かりますか? 生きようとする者は死に、死のうとする者は生き…。世の中にそのようなでたらめな言葉が、どこにあるかというのです。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。

では、死ぬのにはなぜ死ぬか? 死ぬ目的が何か? 生きるためにですか? 生きるのには何かの目的があるのです。自分の目的を中心として生きればいいですか?(いいえ)。生きていく人間の目的が全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」ということは、何のためですか?(神様の息子になるためです)。神様を愛するために、首を差し出せという、そのことですか? その首がいくつですか?(一つです)。これが一つしかないのに、差し出すには何を差し出しますか。これは差し出すのが嫌でしょう? 神様の息子なら、世界的に首を差し出す展覧会があれば、一等になるべきですか、びりになるべきですか?(一等になるべきです)。世界で首を差し出す展覧会があれば、その展覧会で一等のレッテルが付かなければなりません。そのようなレッテルが付くことができるのに、今あのどん底に行って死んではいけないのです。どこに行って死ぬべきか? 最高の立場で死ななければなりません。

それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国が世界のどの国よりも大きいでしょう? 天上天下の一つしかない天国で死ぬのです。では、どこで死ぬか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。死のう! 死にましょう! 死ぬのにはどこで死ぬか? 世界のためになる一人の女のために死ぬのです。分かりますか?(はい)。(笑い)なぜ笑いますか? 良くて笑いますか、嫌で笑いますか?

死ぬのにも場所があるのです。これは何かつまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでもだめなのです。最高の立場、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国がいちばんです。では、世界が全部反対するとき、どのようにしますか? 逃げればいいですか?(いいえ)。ぐっと持ちこたえて、天下が皆、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。(三四\一八四)

今日、我々は最後の復活の一日、希望の一日を願っています。すべての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむことができる希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができるのです。その希望は、神様とともに、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために、神様とともに迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。

このような時が、我々の前に来るということを考えるようになるときに、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心を持たなければなりません。そのような切なる心が、皆さんからわき出ないならば、その希望の一日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができないということを、皆さんは知るべきです。

それゆえ、真の生活をするという人は、「私がどんな姿で死ぬのか」ということを考えるのです。七、八〇年生きて死ぬその時間になってやっと、「私はどんな姿で最後の一日を飾るだろうか」と言ってはいけないのです。イエスは死の場に行って「すべてが終わった」「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはり、彼は人生の行路において、勝利された方でした。

今、皆さんは、これからある一日に死を受けるようになり、死を前にして過去を回顧してみるようになるはずですが、そのとき、どのような一言の言葉を残して行くか、ということを考えてみなければなりません。

この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って来ることもできない道、一度行けば永遠に帰ってくることができない道ですが、この道を行くようになるときに、皆さんはどのような心を持って行くのか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がないならば、そこで最後です。

今日まで神様のみ旨を奉じて、神様のみ旨を立ててきた数多くの人たちは、どのような人たちがいるかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきたという事実を、我々は歴史を通してよく知るところです。

皆さんは、各自各自が死に逢着するようになっても、これを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つようになるだろうという希望と、心で憧れた世界のその本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。神様の理想世界を希望する心が切であってこそ、死に勝つことができる存在になるということを、皆さんは悟らなければなりません。

世の中の万事は、皆過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべては、皆過ぎ去って、後には死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望を持った者であってこそ、この天の前に立つことができるということを、皆さんは知るべきです。

今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、嬉しい事実があるならば、そのときを懐かしむのが人間の心性です。

我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこのすべての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残りうる喜びになりえないということを、皆さんは知っています。

では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるだろうか、違います。心がそのような方向に動き、心情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。

人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命が永遠です。人々が天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も、希望を抱いて行ったのは、普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったためです。そうなったので、死の道も行くことができるということを、我々は知っています。

皆さんの憧れるこことが、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれないなら、みなさんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、どうせ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。

では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人か? 人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。それは人が天の希望を抱く者であるということを知るべきです。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天の前に立って自分の死の価値を誇りうる人になるべきです。天は、このような希望の息子娘たちを探しておられるという事実を、我々は知るべきです。

このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるをえないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群がいるとしたら、天がその泣き叫びに答えまいとしても答えざるをえないのです。(六\五三)

それで、み旨のために死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬのです。この言葉が合っていますか? この言葉がどういう意味ですか? み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。

では、死ねばどのようになるか? 死ぬ前までは、自分のものですが、死んだ後には、神様のものになります。それは、我々が堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、我々の生命全部は、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、神様と因縁が結ばれるのです。

生命と死について見るとき、どちらが強いですか? 死より生命がもっと強いですか? 生命より死がもっと強いですか? サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知った後には、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。

今回、劉孝元協会長がこの世を去るようになるとき、「先生に会って、今までこのようにやって来ましたが、終わりをどのように結ぶのか?」と私が聞きました。そうしたら劉協会長は、永遠に変わらないという言葉を残して行きました。そうでなければならないのです。サタン世界では、どうせ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることができないのです。分かりますか?

では、聖書で言う、死とは何を言うのか? 神様が、永遠に持つことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せ殺せというのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉が、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは、復帰の正常的な論法です。

それゆえ、生命を差し出すことができるかというのが、最も大きな問題です。分かりますか? 先生がこの道を出発するときは、どうだったか。私は、生命を差し出すことができる覚悟ができているかを考えました。

先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬとき、どのように死ぬかも考えました。銃殺されることも考えてみたし…。そうしながら、死ぬときは、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば、生きるかを考えたのではありません。

大韓民国を中心として、役事しなければならないために、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこだろうか? 怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟である北韓に行ったのです。

先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北韓を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身になるのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。

先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準で、すべてを探すことができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生き甲斐を探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、ありとあらゆる重労働をする立場に入っても私は負けない、他の人は皆死んでも私は死なないという信念を持ってきたのです。

統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか? 自由党時代の特務隊長金昌龍殺害事件の首謀者である、許大領(大佐)が死刑を受けるときに、今回のことを計画して指示した者として恨がないかと聞くと、彼は何の恨もないと言いながら男らしく死んでいきました。そのような殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較してみろというのです。比較してみながら、自分は果たしてどのように死ぬだろうかを考えろというのです。

怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるだろうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。怨みを抱かずに死ななければならないのです。何の話か分かりますか? どうせ死ぬからには、怨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈ったのは、偉大なことです。(三四\四七)