P.94 |
今、我々は、知っても知らなくても、あるところに向かって行っています。私が動く時間にも行っているのであり、休んでいる時間にも行っているのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって今行っているのです。これは否定することができない事実です。
この一生を経た後に、自分はある所へ行くのか? これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢にひきつけられ、率いられていっているということを、否定することができないのです。
では、どうせ行くべき自分自身だというのに、この体は、どこへ行こうとするか? この心は、どこへ行こうとするか? また、この生命は、どこに向かって傾いており。自分の心情は、どこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするか? この問題を解決できなかったとしても、我々はどうせ行くべき運命に置かれているのです。
我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この寝所も、この理念も、あるいは希望までも、ともに埋められてしまうのか? 消えてしまうのか? ここに、確実な内容と、確実な解決点と、確実な目的観を立てておかない限り、これは不幸な人にならざるをえないのです。
それで、行く歩みをつかまえておいて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「おまえはどこへ行くのか?」これを聞いてみて、これを解決するために、闘ってきた人たちが聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということを、我々は知るようになります。彼らがそれを解決するために出てきましたが、この日まで「私の体はこのような所に生き、私分の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走れり。ゆえに、全天下にいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け」と、自信を持って命令した人はいないのです。(八\一九四)
宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を追求し、一つに統一された平和の世界を待ち望んできながら、そのような主義主張を、数千年前から叫んできたのが宗教です。今日このときに来て、叫び始めたのではありません。
では、宗教人は、どのように生きるべきか? 自分の夫婦が面白く生きることより、もっと面白く生きることができるのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きることです。個人として生きますが、世界を越えて、私的な起源を通じてなされた世界からは選べない、そのような家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるをえないのです。
明洞の街を過ぎてみると、若い男女たちがむつまじいのです。それは誰のためにそうなのか? 誰とは誰だ、若い青春時代なのに、一度しかないこの時代を楽しむためにそうするのだ。いいというのです。では、その楽しむことにおいて、主人は誰か、これが深刻だということです。皆さんは、いつから楽しむことができますか? 二〇代からなら、いつまで楽しむことができますか? 年が六〇、七〇、八〇が過ぎるようになれば特別な方法があるか?
しかし、統一教会式は、違うというのです。食べるのも何のために食べますか? 生きるために食べますか? 統一教会の輩、何のために食べるのですか? 世界のために食べるのです。悪なる世界をなくすために食べるのです。見るのも、悪なる世界を討ち払うために見るのです。悪の側になるために見るのではなく、悪を討ち払うために見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違うのです。(三六\七二)
もし、人を、約何日間かいてなくなる、そのような存在として創造したら、神様は絶対者ではありません。神様は、人間を永遠に見たくて、また見たい貴い存在として創造したのです。
人間がそのように神様が喜びうる対象なのに、神様が永遠であられるなら、人も永遠であるしかありません。そうであるなら、永遠な神様は、永遠の世の中を相手するのではないかというのです。これを言葉で言い尽くせますか?
ところで、人々は「七、八〇年生きればいいのであって、死んでしまえば終わりだ」と言いながら、死ぬことを終わりとして考えて、今まで生きてきた人たちがたくさんいます。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないかという考えをしました。志を抱いた人であるほど、「人生が何か? 人間はなぜ生まれて旅人のように行くか」と言い、「人生は苦海」とか「草露の人生」とか言い、そのようなことを言いましたが、永生することさえできるなら、そのように悩む必要がないのです。(三九\二二九)