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今日、我々が暮らしているこの被造世界は、どのように存在しているか? 被造世界には軸があります。その軸も二つの軸があります。見える軸と見えない軸、二重構造になっているのです。
一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回るのです。体と心が相対を中心として授け受ければ、互いが回るようになるのと同じことです。
すべての存在物は、このような原則によって存在するのです。同様に、今日堕落した人間世界において、復帰の道も軸を直さなければいけないのです。軸を直さなければなりません。
人間において、体の中心が何か? 心です、心。霊人体があるのです。霊を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体が勝手にできません。
体と心が目的としたそこに行ってこそ、休むことができる安息所が出てきて、嬉しいことが起こるのです。そうではないですか? 目的を達成できなかった過程では、仕事をして苦労はしますが、喜びは感じないのです。目的とするものが終結を見ることができるとき、初めて喜びを感じるのです。(一三六\一四)
神様を中心として見れば、神様、その次にアダムがいます。そのアダムの心が、神様を包んでいますが、これを生心というのです。生心が何かというと、縦的主体であられる神様は、横的なアダムの心の中に臨在されますが、まさに神様に侍る心です。それを生心というのです。(五〇\一九)
人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がおられます。それゆえ、人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来のすべての因縁に代わる存在であるために、天宙的な価値を持っている存在なのです。
人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくのにおいて、自分の心を前に侍っていかなければならないのです。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は、天が叩きます。今まで天は、歴史路程で人間に自身の心を中心として、善の側に属して良心のとおりに生きるけれども、ある物質的な悪の条件に引っかからないで生きろと言いました。
では、人間の良心の基準は、天倫の心情を百パーセントそのまま受け入れることができるようになっているか。そのようになっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。皆さんが願う希望の峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっているのです。これがキリスト教的に言えば、審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。すなわち、中心をつかもうとしてもつかむことのできない時代ということです。
今日、我々は、物質を多く持っていてもいけません。なぜなら、神様は人を創るとき、物質である身体を先に創った後に、霊を吹き込んで創られ、霊と肉になっていますが、霊が中心であるからです。
この世界が、物質的な権限を中心として一つに動くとき、何の闘争時期が現れるだろうか? 思想闘争時期が現れるでしょう。実際に、そのような現象が第二次大戦以後に濃厚に現れています。そして、心を中心とした思想の時代が現れるでしょう。
では、思想はどのような思想であるべきか。物質を貫き、心をつらぬき、霊を中心とした思想であるべきでしょう。霊を中心とした思想の時代を訪ねていくのが復帰路程です。人間たちは、これを失ってしまった状態にまだとどまっており、霊と良心と体の調和を失ってしまった状態に、今もとどまっているのです。
それゆえ、我々は、物質を越えて、霊を越えて、神様の前まで進んでいかなければなりません。世界的に見れば、今は心を越えて、霊的時代に入るときであるため、今日街頭に狂人がたくさん現れます。(四\二六八)