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1)人生路程に対する祈祷文
愛するお父様、今日まで天が、私の前で屈辱を受ける恥ずかしさがあるかと気をもむ小生が、幼いときから今まで戦ってきながら、それを忘れるかと、何よりも恐れる心を抱かせ、今日まで残らせてくださったお父様の恩賜に感謝申し上げます。
この地に何が良いとしても、あなたが運行される本然の心情につながったもの以上貴い基準がないということを思うとき、その立場を無限に恋しがらなければなりません。お父様の愛がどうだったのかと言うようになるなら、その愛に接する人は、世の中の万事を皆忘れたとしても、未練がない立場にあるということを、私たちは知るべきです。
今、私たちはお父様の愛を空気として暮らす私たちの理想世界、本然の所を訪ねていかなければなりません。第三の生の自由の権限を持つことができる解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。
赤ん坊が胎中にいるとき健全であってこそ、地上に生まれたその一生が健全でありうるのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であろうことは間違いないということを思うようになるとき、天と地が協助する、万宇宙の動的な運勢の拍子を糾合して暮らすことができる立場に立つなら、今日の世の中が相いれない世の中であり、三八度線がある世の中であり、悪が主管する世の中であるために、死を覚悟しなければいけないという事実を、私たちは知るべきです。また、私たちの後孫たちだけは、私たちと同じ立場に立てられては、絶対いけないということを悟らなければなりません。(四九\三〇八)
今まで春の環境を開拓するために、絶えず苦労されたお父様がおられるという事実を思うとき、私たちはお父様に無限にありがたがり、無限にうれしがりながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげることができる自分になれなかったことを嘆息するすべを知る息子娘になるべきです。私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化することができる因縁を持って、そこに完全に吸収されなければならないということを知るべきなのでございます。
また、そうしてこそ、初めて春を迎えて花を咲かせることができるという事実を知るべきなのでございます。おまえの一生でどのひと時に春を迎えたことがあるのかと聞くとき、そうだと答えられない、春を迎えられずに行ったかわいそうな霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶためには、夏と秋を過ごさなければならないように、私たちも一つの実を結ぶためには、一生の中でそのような過程を経なければならないのでございます。
一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力を持って第二の生を出発させることができる一つの結実になるという事実を思うようになります。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に新しい世界に再び生まれうる生命の気運が膨れ上がり、結実の実が残っているかという問題を自ら探るすべを知る息子娘になるべきです。
歳月がいくら過ぎていき、暴風雨がいくら激しく打っても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに、絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再びまかれうる第二の生命の母体である種になることであるのを知るのでございます。
同様に、私たちが生活するのにおいてや、生涯の路程において、その姿はみすぼらしいですが、無限の生命力を集約させることができる母体であり、結実体として再び無限の世界に植えられうる甲斐のある生命の真価を持った人がいるなら、彼は外的に見るときいくら悲惨であっても、悲惨な人ではないということを思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨になるほど、内的な価値はより充実するということが保障されるという事実を、私たちが知るようにお許しくださることを切に願うのでございます。(三二\三七)
お父様! お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心がない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶことができないということを知るべきなのでございます。
今、私たちは、心の門を開いて訪ねるようになるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の主体的な命令に、私の体がついてくれることができる、恋しいその日を探しておりますので、今日我々の心から聞こえてくるあなたの音声を聞き、失った自分の体を探すことができ、お父様が私一人を探すために、私の背後から艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちになるようにお許しくださいませ。(四\二八〇)