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三 対物関係

1 日常生活における対物関係

私たちが日常生活において対していることがらは、大体どのように区分されるでしょうか? 第一に物に対すること、第二に人に対すること、第三に言葉に対すること。言い換えれば、物に対する対物関係、人に対する対人関係、そして対人関係において使う言葉との関係があります。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためにあるのです。

ですから、物に対するとき、天法、また神様の前に引っ掛かるな! 人に対する関係においても引っ掛かるな! 物に対する対物関係、人に対する対人関係、そして話すことにおいて引っ掛かってはいけないのです。言葉は必ず行動を促します。これが私たちの日常における関係なのです。(四〇・二八九)

私たちが対するすべての万物は教材です。このような霊的世界の直接的な感応でなく、間接的な感応を起こすことのできる関係を私たちが結べる対象は、神様の創造物です。この創造物は神様の性相に似ているため、間接的ではあっても、性相的な要素を内包しています。それゆえ、その中には私たちが関係を結びえる善の要素、内的な性禀があるために、その性禀によって動かし連結させるような生活を広げていく人がいれば、その人にはどんなことでも支障になることはなく、マイナスになることはないでしょう。(四〇・二九二)

2 万物の真の主人

万物も「私はだれだれのものだけれど、あの家の第一先祖は私をこのように愛し、第二先祖はそれにプラスして私をもっと愛し、第三先祖はそれにもっとプラスして私を愛した」と、言えることを望んでいます。それを望むでしょうか、望まないでしょうか?(望みます)。真の主人になろうと思ったら、万物を神様の代わりに管理してあげ、愛してあげ、また自分だけそうするのではなく、自分の後孫までも更に愛することができるように教育していくべきです。そのような人が真の主人です。

皆さんの「価値」について考えてみましょう。自分が価値ある存在であるがゆえ、自分が持っている物は自分の対象としての価値を持つようになります。これが創造の原則です。主体の前に対象として現れるときは、お互いに授け受けながら一つになるのです。そうですね? 対象も主体と同等な価値圏を与えられるのです。これが原理の教えです。ですから自分に属した物を粗末にする人は、長続きできません。自分に属した物を愛するべきです。紙一枚から家財道具一切に至るまで、自分に属した物はすべて貴重に思わなければなりません。節約すべきだということは言うまでもないことです。

どんなに小さな物も、私がつまみ上げれば、それは私の対象としての価値を持つようになるので貴いのです。ですから有名な人が使ったすべての物は、その国の貴重な骨董品として残るのです。それがどんなにぼろぼろになっていても、その国の宝物、財産として残るのです。そうですか、そうではありませんか? その物品が国全体に代わる価値を持つ中心的存在の相対としての価値を持ったために、全国民がそれを崇拝するようになり、その伝統的思想と一致するその物品が、全国民の情緒的面における道になるのです。そういう物が集まって世界になったのです。分かりましたか? 真の主人は神様の代役者であるので、真の万物、真の物質の主人になるべきなのです。(四六・二七三)

では、統一教会を中心として見るときに、先生は教会の所有物の主人であり、皆さんは教会の人として、これから主人の息子になる立場にいる人であるなら、その主人の代を継ぐためには、先生を中心として属している物を、先生が愛したその上に、皆さんの特性的な個性の愛までプラスして愛しなさい、ということです。先生以上にもっと愛すべきなのです。(四六・二七二)

3 対物関係における基本姿勢

では、対物関係においてどのように天の物とさせるのでしょうか? つまり物に対して堕落した自分として対するのではなく、神様が主体となって対したという立場をいかにして立てるか? 対人関係においても自分自体として対するのでなく、いかにして神様とともに対するか? また話すとしても自分個人の言葉で話すのではなく、いかにして天の言葉を話すか? これが問題です。その話したことを言葉としてだけ残すのではなく、必ず行動が伴わなければならないのです。これが私たちの生活圏内で関係している内容なのです。私たちが物に対するところから職場生活が起こり、人に対するところから人倫関係が起こります。言い換えると、道徳関係が広がるのです。そして対話関係においては、行動問題が起こるのです。これが私たちが生活圏内で関係している与件なのです。

ですから物に対するにおいて、原則的な礼法から外れてはいけない! 人に対するにおいても礼法から外れるな! 話し、行動するにおいても礼法から外れるな、ということなのです。物に対しても、人に対しても…。もちろん人を中心として対物関係が成立するけれども、このような立場で関係を結んでいるということを知るべきです。

それでは信仰者として、物に対するときどのようにすべきでしょうか? どこまでも公的に対さなければなりません。公的に対するけれど、その物に十くらいの価値があるとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それがどうしたら千くらいの価値に見えるか、いかにしてより価値のある物として見るかという問題について考えるとき、それ自体の価値は微々たるものであっても、そこに神様が介在しているのだと考えれば、その価値を千の比重まで高めることができるのです。自分が愛するこの物の中に、神様が関係しているというとき、その価値は無限な比重を持つようになるのです。

そのような心で物に対するようになれば、物が本当に慕わしく思えるのです。皆さんの生活圏内や心の世界の中で、そのような感応が来るようになるのです。そのような心で仕事をすれば、その結果は必ず自分一人で見つめていたときよりも、もっと立体的な価値の内容を感じるようになります。

一つの事物に対していたのが、結果的に自分に環境的なより大きい価値を感じさせるという事実は何かというと、それでもって自分がより高い意味での霊的価値を占めうる位置に立ったということです。これを皆さん自身が感じなければいけません。そうすれば仕事をしてから感謝することができます。その仕事がどんなに大変だとしても、自分がしている苦労よりも何百倍、何千倍の価値ある結果が表れるという、天的な価値を感じながら行なう人がいるならば、その仕事がどんなに難しくても、それがむしろ感謝の対象になるのです。

ですから物を扱うとき、何の気もなしに扱ってはいけません。その物が自分にとってプラスになるか、あるいはマイナスになるかを考えなければなりません。つまり、自分にとって福となるか、あるいは禍となるかということです。したがって、現在十の位置で自分が物に対すると、十一の価値になるか、九の価値になるか、すなわちマイナスをもたらすのか、プラスをもたらすのかということを考えて、ここでマイナスになる位置を避けて、プラスになりうる立場をどのように立てるかということを考え努力しなければなりません。

このように皆さんが探し求めていくならば、どんなことに対しても心は既に知っているのです。ある事物に対するとき、それが自分にとってプラスになるのかマイナスになるのか、いっぺんに分かるのです。仕事をするにおいても、私の心と志が、主体と対象が授け受けすることによって一体になって初めて三点となり、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が広がるのです。そうじゃないですか?

そして物が自分と主体対象の結果にぴったり合う価値を発揮するときに、神様の創造目的の結果が収められるので、それは神様の対象物として善の結果をもたらすのです。

このような善の結果を自分の周囲にたくさん置いておけばおくほど、自分自体において、再創造過程における位置がだんだん広がっていき、高くなっていくのです。このような立場に立てば立つほど、そういう生活をすれば、どんな物を扱ったとしても既にそこから波長が来るのです。円満な心、邪心を離れて共鳴しうる音叉のような心で、深刻に物に対するようになれば、それが良いとか悪いとかいう感情がわき出ます。それが自分にプラスになるのか、あるいはマイナスになるのか…。このようにいつも打診すべきなのです。

もし波長が来なければ、公的な立場に立って邪心を捨て、心を丸いダイヤルのようにした上で、仕事なら仕事、物なら物にさっと対したとき、最初の印象や初めてわく感情を通して、これは間違いなくプラスになるという感じを持ってその仕事をしてみるのです。仕事をするにおいても、無意味な立場で行なうのではなく、神様が創造するのと同じような心で、真実なる立場でやってみなさい。やってみると、良い悪いという結果が必ず出てきます。

そして自分が鑑定したことが何パーセント的中したのかということを、生活の中で点検してみなければなりません。生活の中でプラスになったと感じた初めての感情が何パーセント的中したのかということをいつも注意すべきです。そのような生活態度をだんだんと習慣化させると、十の中で五つ、六つと的中度がだんだん高くなっていくのが分かります。これを育てるべきなのです。的中度が高くなっていくのです。その反面悪いと感じること、良くないと感じることをしたら、良くない結果が出たというときには、それは意志が共になかったためです。

このように私たちの周囲にあるすべての事物に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自分の体恤的な感情をどのように啓発するかという問題が、この上なく重要だということを皆さんは知らなければなりません。ですから、皆さんが職場生活で物を扱うにおいてもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、粗末に扱うならば、その会社にとってマイナスの人になるのです。それは国の物であり、神様の物だと考えれば、紙一枚たりともそのように粗末にすることはできません。

このような粗末にしない心を持ってその代価を追求し、些細なことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体恤の徳を広げるための条件物として探すために努力し、生活的な感情を連結させるために努力すれば、生活圏内において必ず神が共にいらっしゃる、ということを忘れようとしても忘れられません。対すれば対するほど、自分が対することにおいて、神様が共にしたということを実感的に感じることができるのです。そのように生活する人は、疲れようとしても疲れることができないのです。

自分一人考えもなく歩き回って損をして、その損が現在の立場より重大になるときには、そこで打撃を受けて落ちていってしまうのです。ですからこの体恤信仰を啓発するためには、皆さんは常に物を粗末に扱うなということです。深刻に扱わなければなりません。これを間違えると、信仰の道全体が引っ掛かって越えうる条件も、そこで成立するのです。(四〇・二八一)

4 先生の万物を愛する境地

皆さんの万物に対する観…。ここアメリカに来てみると、あまりに物質が多くて物質を愛する気持ちがありません。それを感じました。私たちは、それが神の愛を受けるべき対象物だということを考えながら接することを知らなくてはなりません。物質は、真の父母の愛を受け、真の子女の愛を受けるべき対象物なのです。

例を挙げるならば、皆さんが乗り回す車は皆さんの服と同じなのです。服と同じように皆さんの体と一つになっているのです。ここニューヨークのような所で外出すると不愉快なのは、車を掃除して乗っている人が少ないということです。皆ぺちゃんこになった車にひたすらそのまま乗っています。これではいけません。女たちが朝に化粧をし、男たちもひげをそってきれいにして、鏡を見て素敵に着こなして車に乗るのに、車もそうあるべきではないですか? 車も相対的な価値の基準程度にしてあげて乗るべきなのです。これから私たち統一教会の輩は、車に乗っていって、万一どこかにぶつかってへこんだら、それにしがみついて泣くことのできる心を持たなくてはいけません。このように考えるべきです。このように愛すべきだということです。そのように車を愛すことができず、物を愛すことができないから、離婚もよくするのです。息子娘も愛さず、離婚も多く…。それは皆直結しているのです。

先生はりんご一つにしがみついて、どれだけ感謝したか分かりますか? そういうことがあったのです。共産圏内の監獄にいるときのことです。一年に二回、五月一日と正月一日に果物をくれます。りんご一個、りんごを配給してくれるのですが、自分が好きなのを選ぶのではなく、順番に分けてくれるのです。分けてくれるとき、虫が喰っていようと、何であろうと、ただ分けてくれるのをもらわなければならないのです。そのりんごを分けてもらうと、普通の人はもらった途端、ぱりぱりとひたすら一分もかからずに食べてしまいます。

しかし先生は「この色つやはなんてきれいなんだろう。この色つやを食べよう!」、こう考えたのです。「色つやを食べて、その次に味を見よう」そのように考えたのです。そうしてみると、口を開けて食べる気にはなれないのです。食べずにおいて見れば、目の足しになるし、香りもかげるし…。食べたいと思う自分になれないことを感じてみたのです。

だからといって、それを持って歩くわけにはいきませんでした。それで食べるには食べるのだけれど、食べるときは神様の前に祈祷しながら、独り言で「りんごを食べるにあたって、私が世界で最初にこのような考えを持って食べる」と、自負心を持って食べたときがありました。このようなことを考えるとき、そのりんご一個でもそうなのに…。

アメリカ人の皆さん、車を愛していますか? 愛してみましたか? 愛しますか? さあ、今から愛しますか? そうすれば車は故障しないのです。車を愛して一つになって行くならば、どんなにスピードを出しても、ぶつかる車が来ても逃げていくのです。そうなのです。そのように信じなさい。原理的に完全に一つになったものは、サタンが侵入できないようになっているのです。神様がそれを保護してくださり、サタンは来られないようになっているのです。原理がそうでしょう? 

皆さんがサッと服を着て、鏡に顔をパッと一回うつしてみてから出かけるのと同じように、車に乗るときも、車をさあっと見ながら、ガソリンは入っているか、水はあるか、その次にはギアを入れてみて、音を出しながらどこか故障していないか、昨日と今日で変わったことはないか、と全部音を聞いてみてから乗らなければなりません。このようにして行くときには、どこに行くにしても、少なくとも 一〇〇メートルくらい行ってからブレーキを踏んでみて、故障していないか確認してから行くのです。自分の身だしなみをきちんとするように…。そのようにして行けば、事故が起ころうとしても起こらないのです。音を聞いてみてですね。音を聞くのも重要なのです。

今日ここを皆さんが装飾しましたが、これをやりながら「ああ、きれいにしなければ」、そう思ったことでしょう。そのようにするときに上手にするのもいいけれど、これを片付けるときにも「ああ、これを片付けたらいいだろうなあ」と、思いながら片付けるべきです。そうすべきなのです。また、自分が服を着替えるときには「ああ、ごめんなさい」と、そう言うべきなのです。

皆さんが原理を中心として、物質に対するそのような心情的関連性をなしておかなければ、神様の一体理想をなすことができないのだということをはっきり知るべきです。それを知るようになれば、自動的にそうなるのです。「物を大切にしなさい」こう言わなくても大切にするようになるのです。だれかが見ているからするとか、見ていないからしないというのではないのです。それはそうなるようになっているのです。(六七・一五五)