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1 仕事に対する基本姿勢
一日の生活を通して対すべき仕事に、何気なく対してはいけません。それはすべて天が実際生活を中心として、天国をなすための一つの材料として自分に接近させてくれるのです。それだけに、それを良い結果として消化することのできる主体的な自我をどのように発見するか、ということに努力しなければなりません。
それを発見するためには、皆さんの勘、最初の感じを常に父の前に相談して、共鳴体とならなければなりません。心をさあっと開いて、昼でも夜でも、いつでも天と対することのできるそのような基準になれば、必ず霊波が来るのです。(四〇・二九六)
仕事をするときも心と体が一つになり、一体になって取り組むことができなければ、これは悪です。心と体が本当につかみあえば、それが四位基台なのです。仕事も同じなのです。四位基台が目的なのです。私の心と体が一つになり、その仕事と一体にならなければ、四位基台の目的がなされないので、その仕事は何の役にも立ちません。監督がいるからといって、だれかが見ているからといって仕事をするのですか? 天国と地獄は空中に広がるのではありません。皆さんの生活圏で心と体が一つとなり、三対象目的圏を中心として創造原理の法度によって広がっていくのです。(四〇・三〇〇)
仕事をするときもそうすべきです。例えば、女たちが縫い物をするときに、そこには自分の夫のための縫い物とか、愛する人のための縫い物とかもあるだろうし、あるいは望まない人のための縫い物もあるだろうけれども、皆同じく誠を尽くさなければなりません。あるいは針内職する人も同じです。お金をもらうために、利益を得るためにただ適当にやって種類だけ増やして仕事をすれば、必ず詰まってしまいます。その仕事も自分の仕事のように、自分の愛する人の服のように精誠を尽くした心でするならば、その服を着た人は服を扱うとき「これは善の品物なんだな」と言うのです。もしも体恤信仰をする人がいれば、精誠を尽くしたのか尽くさなかったのか、すぐに鑑定してしまうのです。すべての事物をそのように観察しなければなりません。(四〇・二八五)
私たちは何かの仕事をしながらも感謝し、その仕事をしながら求道の世界を発展させようとする神様の心があるということを感じるべきです。そのような生活を幅広くすればするほど、自然に大きくなるのです。どんなことをしても「ああ、私は嫌だ」、これは怨讐です。「私にはこれはできない」という考えは捨てろ、というのです。(七三・七八)
皆さんは夫婦同士愛し合っていますか? 祝福を受けた夫婦同士愛し合っていますか? そのような人たちが仕事をしに出かければ、自分の仕事場は第二の妻と同じなのです。外的な女性の服と同じなのです。
ですから職場に行くときには「ああ、職場に早く行きたいな」、こうでなければなりません。早く行っては「ああ、仕事を終わらせて、また早く家に帰ったらいい」、こうでなければなりません。家に帰れば職場に行きたくて、職場に行けばまた家に帰りたくて、このように行ったり来たりしてみなさい。そのような人は絶対に滅びません。間違いなく栄えるようになっています。そうかそうでないか、見てみなさい。
先生は今までこのような心情でもって水沢里の工場を行ったり来たりしたのです。神様が祝福してくだされば栄えるようになっているのです。自然にそうなるのです。夜でも仕事場に行ってみたくならなければいけません。また行くと家に帰りたくて…。
ここにいる輩たちは水沢里の工場に行ってみただろうけれども、先生は水沢里の工場に一日に三回も行ったことがありました。そうすると人々は「ああ、先生はどうなっているのか分からないよ。昨日も来られたし、ついさっきも来られたのに、また何しに来られたんだ?」と、言うのです。このような心情を積み上げていけば、その心情に該当する相対的な物質を祝福してくれるのが原則なのです。(六七・一五七)
2 先生の仕事に対する姿勢
先生はどんな仕事をするときにも疲れません。皆さんはどうですか? 一年くらい経つと疲れますか? どのくらい経つと疲れますか? 十年経つと疲れますか? 二十年経つと疲れますか? 何年くらい経つと疲れてしまいますか?(絶対に疲れません)。絶対? 本当ですか?(はい)。私は皆さんを信じられません。少しでも何かあると、どうのこうのと…。
それを面白いと思わなくてはいけません。「私はこのために生まれたのだから、これが運命なのだ、運命! これを食べなければ生きられない」と、考えればいいのです。これが面白い仕事のなのだと、ここに面白さを発見して、ここに幸せを発見して、ここで浮かれるということを発見すればいいのです。
先生は皆さんが生まれる前からこの仕事を始めたのです。ここにいる皆さんを見ると、だいたい三十代くらいだけれど…。私はたくさんの仕事をしてきたのです。そのときよりも、することがもっと多いと思っています。することがもっと多いのです。ですから、今日を自慢したい人ではありません。自慢することがあれば、明日の戦いのためにどのように投入するかを考えます。行く道が忙しいのです。先生を見ると疲れた感じですか? まだ疲れていないのです。行けば行くほどもっと刺激的で、もっと力がわくし、もっと素晴らしくなっているのです。そういうことを感じようとするのであって、疲れたの何だのと…。
ですから、何であろうと生命を、首を懸けてやるのです。そのようにすると、成功するものなのです。やってみると、望まなくても成功するようになっているのです。神様がより愛する人には、「あいつはいつ死ぬか分からないから、早く成功させてあげないといけない」と、神様も同情するのです。もしもそうしてあげられずに死んで霊界に来れば、神様が悪いと思うじゃないですか? 父母はそうなのです。愛する子供が望むもの、必要なことをしてあげないと父母の恨みになります。同じなのです。
神様はお父さんであり、自分は息子なのに、死ぬようなこと、とんでもないことをするというのです。やっても駄目なことなのに、命を懸けて「私はお母さん、お父さんのためにこれをする」と、自分が死ぬことも知らずにいるとすれば、父母はあらん限りの力を尽くして助けてあげたくないですか? 同じなのです。父母が子供よりも先に行って、このすべての責任を取ってあげるようになっているのです。そうするのではありませんか。自分のためにそうするのではいけませんが、父母のためにするのだから、父母は夜寝ることもできずにそれをしてあげるようになっているのです。神様のためという、父母のためという、その条件があるがゆえに…。父母は愛に弱いのです。子供に対する愛は…。父母は子供の前では強くなれるということを知るべきです。愛する心には…。
ですから先生は何かを始めたとすると、ご飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れてそこに酔ってしまうのです。どのようにして陶酔してしまうのか、そればかりを考えて昼夜を忘れて仕事をしたりするのです。そうしてみると神様も…。万一先生が死んだらどうするのですか? 神様にも計算がすべてあるのです。ここに協力してくれるようになっているのです。(六六・三一八)