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第三節 成約時代と侍る生活

一 成約時代とは、すなわち侍義時代

1 成約時代とは何か

神様は六千年歴史の中で、三段階を経て救いの摂理をされてきたのです。そうして、僕の時代である旧約時代と、養子の時代である新約時代を経て、成約時代を迎えたのです。成約時代には子女が現れて、父母の席を準備して父母に侍らなければなりません。今まで神様はこのような復帰摂理をしてこられたのです。(一六・一七八)

成約時代とは何か? 地上において家庭を中心とし、父母の愛を中心として理想世界に行く、サタンが讒訴することのできない、新しい世界へと前進する過程が成約時代です。成約時代とは、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏をいうのです。約束がなにかというと、責任分担です。責任分担の約束を完成できなかったのが堕落です。旧約というのは昔の約束です。新約というのは新しい約束であり、今の成約は約束を果たす時なのです。果たすものは、世界万民が責任分担を完遂することです。責任分担を完遂することです。(一三一・九八)

完成時代、成約時代とは何か? 父母様の愛を中心として、アベルが一つとなり、アベルと兄弟が一つとなって、カインを屈服させるのです。カインが屈服しなかったのは、父母がいなかったためです。ですから、このような惨事が起こってしまったのです。アベルを憎んだのも、父母がいなかったため憎んだのですが、父母を中心としてアベルと一つになれば、カインは順応するのです。(一三一・七五)

歴史を見てみると、旧約時代は神の人を探す時代であり、新約時代は成約時代に父母に侍るための犠牲の時代であり、今の成約時代は、真の父母を中心として神様に侍るための、神様を解放するための犠牲の時代です。ですから、今日の統一教会は、白の十字架を見せるのです。父母様が十字架を背負っていくのです。人間が長生期完成級で堕落したために、三段階のうち一つの段階を残した完成級という圏内で、先生が二〇年間の道をもう一度上がっていかなければならないのです。(一三六・三〇七)

私は旧約時代のすべての供え物の復活体を持っており、新約時代のイエスの体の復活体を持っており、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体となったといって行くときは、天地すべてが私にぞろぞろと列を作ってついて回り、すべてが注目するのです。ああ、私を好いているのはいいことだ、私は幸福だ、悪口を言いたければ言い、言いたくなければ言うな、どこへでも行く、そういうのです。難しい道も行くだろうし、迫害の道も行く、私の幸福のために行くのです。そうして、勝利者になれば、どんなにいいでしょう。(一〇七・二一六)

2 成約時代とは愛の時代である

今日私たちは、神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また、私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公でいらっしゃる神様は、人間をして歴史路程で希望に代わった旧約時代、信仰に代わった新約時代を経るようにされたので、これからは愛に代わった成約時代を経ていかなければならないでしょう。

それでは、今はそのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変な一つの中心要素として残りうるものは何か? それは神の愛なのです。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなるのです。(一・九〇)

成約時代は愛の時代です。ですから結婚もできるのです。今までは宗教に対して愛の時代を許さなかったので…。次元の高い宗教は、結婚を許さなかったということを知るべきです。(九六・一一七)

3 侍ることで救いを受ける時代

堕落した時代は、サタンが支配する時代です。それは考えだけではなく事実なのです。今日の環境的な事実を霊的に見れば、そうなっているということなのです。なぜ信じなければならないのか? アダムが堕落したのは、信じられなかったためでした。信じることができず、行うことができず、行うことができなかったために、天に侍ることができなかったのです。これが三大条件です。それゆえ、行儀の時代である旧約時代、信義の時代である新約時代、侍義の時代である成約時代、というのはアダム自身が行けなかった道なのです。アダム自身が堕落することによって、サタンの支配圏内に入ってしまったため、アダムが本来いるべきであるその位置を歴史的に探し求めて行くべきことは、避けられません。ですから、蕩減条件を私たちが再現させて、勝利的条件を立てなくては、本来のアダムの位置に帰ることはできません。

信仰の義とか、行いの義とか、侍る義を追求するのはなぜか? 義でなければ善悪を分別することができないのです。悪なる世界と、善なる世界が分かれないのです。そのライチャスネス・スタンダード・ポイント(Righteousness standard point:善の中心点)とは何かということです。それが何かというと、いつも神様なのです。神様が信じるように、神様が行うように、神様が侍るように、いつも神様が中心になるべきです。

なぜそうなるべきなのか? サタンは、神様のような義なる者に対しては、讒訴することができないのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する侍りの環境に処していれば、サタンが干渉することはできません。いつでも、サタン圏内においてもそのような環境が広がれば、その環境に神様も共にいる義の基準が広がれば、サタンはそこから後退するのです。

だからといって、行う旧約時代が過ぎ、信じる新約時代も過ぎ、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代にも信仰が必要であったし、新約時代にも行いが必要であったし、侍る時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、すべてが必要です。それは蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じことです。それは離そうとしても離せないものです。

今、特別に侍義というのは、生活化天国時代をいうためです。それで侍義時代を持ってきたのです。復帰歴史というのは何かというと、神様の創造理想を再現するものなのです。(一六一・二一八)

主がこの地に来られる目的は何か? 地上に天国を成すためなのです。天国はどのような所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所ですから、侍るための準備と侍る生活を、万宇宙で永遠に誇ることのできる世界が天国です。(八・三〇七)

今日、私たちは、侍って救いを受けるということをいっています。それならば、皆さんは実際に親に侍らなければなりません。どんな悲しみと苦痛が後について回っても、神様が記憶することのできる条件を作るべきです。小さい条件ですが、神様が喜びうる条件を作るべきです。(一三・三一〇)