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天国という所は、心情を通さなくては行けない、ということを皆さんは知っているでしょう。天国は、全体を主管することのできる本然の国であり、本性の国なのです。その国は、ある事情を持っていては所有することはできません。深くしみ込むような心情の因縁を備えてこそ所有することのできる国なのです。ですから、キリスト教は、究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をたたえうる基盤を築くことに、地に対して摂理される天の目的があるのです。
堕落とは何ですか? 神の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を捜してこられた神様は、失った息子娘に対することのできる心情は持っているけれど、その心情を分かち合うことのできる人がいなかったので、その人々を捜し求める役事をされますが、それが救いの歴史であり、その人々を捜し求めるために送られた者が救世主だ、ということを、皆さんははっきり知るべきでしょう。
私たちは、天国を望む前に、神様の心情を望むべきであり、また、神様の心情を望む前に、私自身がどのように生きて行くべきか、ということを考えるべきです。皆さん自身が、まず侍る心情を持たなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を垂れて恋しく思うのが人間の本性です。人間は堕落したといっても、高く貴い天の心情に対し侍りたいと思うのが、私たち創造された人間の本然の心情です。そういうようにして、心情の通ずる侍りの生活をしたことのない者は、天国と何らの因縁もないということを、皆さんははっきりと知るべきです。
さて、侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経た後には、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経た後に行く所が天国です。心情で侍った者が行く所が天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を褒めたたえ、高く表す世界が天国です。これを皆さんは、はっきり知るべきです。私たちは、このような目的の世界に向かっていく過程を経るべき運命に置かれているのです。(八・二九〇)
天国はどのような所か? 準備したものを持って自慢する所であり、侍る生活をしたことを自慢する所です。では、その天国はどのような者が行く所なのか? 主を信じ、幸せを受けるために、幸せを先立たせていく者が行く所なのか? 違います。天国は侍るために、心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍りの生活を残して、喜んでいける者が行く所なのです。(八・三〇四)