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二 侍る生活とは

1 侍る心構え

皆さん、侍義時代とは何ですか?(侍る生活をする時代です)。

皆さん、示威時代ですか、侍義時代ですか? しかし最近は、示威する人が多いですね。だからといって、侍義なのか示威なのか、いたずらにこんがらかったりしないで下さい。

皆さんは侍義時代、すなわち、侍りの生活において、正確な中心をおいていかなければなりません。神様に侍るのにも礼法があります。その礼法に背いたときには、神様はとても怒る方です。(一七・二八七)

私たちが神様に侍るとき、いちばん最初にすべきことは、我慢し耐えることです。だれのために我慢し耐えるのですか? 全体のために我慢し耐えるべきです。全体の目的のために、中心的な思想でもって、それがなされるときまで忍耐するのです。そこには不平不満が同居することはできません。そのようにすることによって、天国と天の土台が広がっていくのです。(四四・一八)

皆さんがお父様に侍ることができるとき、そのような時間が来たらどのようにしますか? どのように孝行するのですか? そして、どのような姿でお父様に侍るのか、考えるべきです。お父様とどの川辺で会えるのか! どのようなところで会えるのだろうか!

皆さんが山奥に入っていって生活するようになると、統一教会の食口が訪ねて来てくれたらと切実に願うようになり、また、食口の中にだれか具合の悪い人がいるのではないか、と心配するようになります。そして、自分といちばん近い食口に会えたらよい、あるいは先生を迎えたら、地区長を迎えたら、地域長を迎えたらいい、という恋しさがなければなりません。

毎日のように恋しくなれない人は、侍ることができません。皆さんはこれを知るべきです。だれを恋しがろうとも、いつも恋しさで胸が痛んでいなければなりません。夜十二時になると「さあ、寝よう。」と言う人は、神様に心配をかけている人です。天国は、夜も昼もありません。心情の因縁でもって出てくるときは、夜が問題ではないのです。(一七・二九三)

人間において、神様を愛することは、いちばんの戒めですが、死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか?(死ぬほど愛すべきです)。では、皆さんは死ぬほど神様を愛しますか、死ぬほど愛しませんか?(愛します)。どれ、死ぬほど愛するという人、手を挙げてみなさい。雷に当たって死んでも愛すべきです。神様を死ぬほど愛さなければならないということです。では、死ぬほど愛さなければならないのならば、死ぬまではできないことはないのです。

皆さん、白頭山の頂上に登っていって、そこにある磐石を耕して、畑を掘り起こして、ジャガイモを植え、そのジャガイモで神様を奉養することができますか? しますか、しませんか?(します)。それをしなければなりません。そのときは牛がいなくて、愛する妻を牛のように使って畑を耕したら、雷に打たれますか、打たれませんか? 妻を牛とみなして畑を掘り起こすとき、神様が「おい! やめなさい!」と言うならやりますか? 自分の心を尽くして、自分の志を尽くして、自分の精誠を尽くしなさい、といったからやりますか?(やります)。(三七・二五)

2 侍りの生活態度

皆さんは侍義の生活をしなければなりません。朝、寝床から起きて、最初の一言を天の前に捧げて、家を出るときも、初めの一歩を右足を出し、天の前に捧げなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活をすることができるのです。このような観点から、皆さんは原則的な基準から、生活態度をとるべきです。(一七・二九六)

皆さんが考える、神様に対する侍りの生活は、どのようにすべきか? 侍る生活はどのようにすべきかということです。神様と私を一体と考えて、真の父母と一体と考え、生活すべてが…。ここに私が住むとしたら、「このすべてのものは、神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば私のものだ」このような観念を持つべきです。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国も真の父母のものであるために、私は真の父母の息子であるから、すべてのものは私のものだ、という結論が出てくるのです。

私たちは神様に侍り、父母に侍りに行くのです。話してもそうだし、行動もそうだし、寝ても覚めても侍る生活をすべきです。このようなコンセプト(Consept:概念)だけ持てば、二十四時間サタンが侵入しうるものは、一つもありません。(一六一・二三一)

皆さんは神様に侍る者として、皆さんが嬉しいとき、神様をどれだけ嬉しくしてさしあげられましたか? 皆さんがお腹が空いたとき、ご飯を食べながら感じるありがたさ以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。

皆さんが良い物を食べるときや着るとき、そして悲しいときや難しいときも、いつも神様に侍るべきです。それで神様の心に記憶されうる事情を残しておくべきです。(一七・二九一)