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第四節 対人、対言、対物関係

一 対人関係

1 人に対する方法

イ)こなすべき人間関係

私たちの日常生活の中で、良い悪いという観念はだれもが持っています。私が「良い」ということも、色々な観点から違うように考えることができます。

私たちの良心を中心として考えてみてもそうです。皆さんは、こういうことをよく感じるでしょう。特別な信仰生活をする人たちや、霊的な生活を追求する人たちは直ちに感じるのです。人に対するとき、その人とは初対面なのに、さっと会ってみると、その人が良い、あるいは悪いということが分かるのです。それはあることについて、より良心を中心として人に会うと、過程を経ずしてそれを感じるのです。会うのは初めてでも、良い悪いという結果が分かるのです。皆さんも信仰生活をしながら、このようなことを体恤するときが多いでしょう。霊的な体験をした人たちには、そのようなことがあるのです。

このように、良い悪いを何よりも一番早く決定することができるのが対人関係なのです。人と人との間で、良い悪いというのが早く判断できるのです。人は必ず対内的関係と、対外的関係を持っています。ところで、対内的関係がどんな関係かといえば、人間との関係であり、対外的関係は、世間との関係なのです。このような関係を結んでいるのが人間たちなのです。(二七・四六)

人について研究をすべきです。笑うときも、ある人は弱々しく「ウフフ」と笑うかと思えば、ある人は力強く笑います。笑うのも万物相なのです。笑うとき「イヒヒ」と笑う人がいて、「ウフフ」と笑う人もいて、「ホッホッ」と笑う人もいて、ありとあらゆる人がいます。上がって、下がって、すべって、転んで、吹き出して…。(四六・二八五)

このようにすべての問題を見てみると、皆さんは信仰生活をするにあたって、自らついていきながら自分が立つ位置を整地すべきです。すべての人が検討の対象なのです。だれであろうと、自分に対して善でなければ悪なのです。自分にとってプラスでなければマイナスになり、マイナスでなければプラスになるという、そういう関係を持っているのです。何かの言葉をぱっと聞くと、その言葉がプラスになる言葉か、でなければマイナスになる言葉なのか? 何かの行動をするときにも、これがプラスになる行動なのか、マイナスになる行動なのかということを検討すべきです。言い換えれば、それが天のみ旨と信仰の道の前に役立つのか、役にも立たない悪いことなのか、という問題を検討すべきなのです。(四〇・八八)

ロ)人は三つの部類に分けられる

堕落した世界を見ると、サタン世界にいる人がいます、サタン世界圏。初めての人にはよく分からないでしょうが、サタン世界圏にいる人がいるのです。その次には、サタン圏と天国圏の中間圏にいる人がいます。そしてサタン圏でも中間圏でもない、天国圏にいる人がいます。大体このように三つの部類に分けられます。

私たち個人を中心として見ても、体と心があります。ここでは心は体のものではなく、霊のものでもありません。中間なのです。空間と同じです。ですから、肉的な人がいて、心的な人がいて、その次には霊的な人がいます。

これと同じように人間にも、サタン世界側にいる人がいて、中間層にいる人がいて、天側にいる人がいます。

人々を見てみると、人によって違いはあっても、ある人はさっと会っただけで何となく嬉しいのです。その人とは初めて会うのに、心が引かれていくのです。なぜそうなのか? それはその人が自分よりも心霊基準が高い人だからです。自分の先祖たちが築き上げた基準よりも高い基準にいる人には、なぜか自然に会えば嬉しくなるのです。なぜならば、その人と因縁が結ばれるようになると、それによって自分が損をするのではなく、得をするからなのです。

人の善し悪しがどこで左右されるかというと、その人と関係を結んだ自分が、損をするか得をするかという問題によって決定されるのです。だれでも悪いことは嫌がり、良いことは喜びます。

また人々の間には、良くも悪くもない人がいます。そんな人がいるのです。その次には、会うと何だか嫌な人がいます。このようになっているのです。会えば嬉しい人がいて、嬉しくも嫌でもない、ただそれだけの人がいて、なぜかひたすら嫌な人がいます。このように感じるのは、相手が電波のような波長を出して、何かを感じさせるからです。

そのような観点から、皆さんはうまく分析しなければなりません。ある人をさっと見て良いと思うのは、それは原理的に見れば、すでにその人が主体になっていて、自分は対象的な立場で授け受けしているのです。皆さんが原理を中心として考えてみれば分かるだろうけれども、完全な相対基準を立てて、完全な相対基台を成し、完全に授受すれば、神様が臨在なさるのです。これが原理の教えなのです。(五〇・二五八)

ハ)先代の因縁圏にいる私たち

それと同じように、皆さんがある人に会って嬉しいというのは、自分が望まない環境にいたとしても、何がなんだか分からないが、彼に与えずにはいられない、彼から受けずにはいられないという立場に立つようになったということです。言い換えれば、強い磁石と鉄があれば、鉄が磁石の影響を受けるのと同じことです。そうじゃありませんか? 影響を受ければ、必ず鉄自体が引っ張られていくのです。引っ張られていくというのです。このような作用があるので、皆さんの目には見えないけれど、その二人の間には何か分からないが行き来する因縁が結ばれているのです。ですから、授受するその因縁が大きければ大きいほど、神様はそこに臨在されるようになるのです。

その授受力に該当するくらいの運動が起これば、必ず中心を描きながら運動が広がるようになります。授受するようになれば、運動が広がるのです。運動が広がれば、必ず中心を追求しながら運動するようになります。中心が早く決定されれば、それが長い間継続するけれども、中心の決定が遅れると、早く倒れてしまうのです。このようになっています。

このように授け受けすれば、神様がそこに臨まれます。中心を決定されるのは、私たちが原理を習って分かっているので、ぱっと会った瞬間から気分の良い人がいます。何だか分からないけれど、気分が良いのです。そこには必ず因縁があるのです。皆さんはお互いに初めて出会って、朴氏とか、金氏とか、崔氏とか、趙氏とか、文氏とか、各姓氏に分かれていますが、皆さんの先祖同士は因縁があるのです。

過去の私たちの先祖、おじいさんとかおばあさんを調べてみると、趙氏のおばあさんがいるかと思えば、金氏のおばあさんもいます。このようにお嫁に来たおばあさんすべてを調べてみると、数多くの姓氏が接近したり離れたり、また接近したり離れたりしているのです。崔氏のおばあさんが現れ、また金氏のおばあさんが現れ、このように先祖をざっと調べてさかのぼれば、一人のおじいさんから今のお父さんの代まで下ってくるには、多くの氏族たちがくっついたり離れたりしているのが分かります。一世代生きては死に、また一世代生きては死に、このようになっているのです。

このように下ってくるのですが、比例で見れば、自分の宗族や氏族を中心として、ある特定の姓氏があるのです。自分のおばあさんたちの間に、どの姓氏を持ったおばあさんが多いのか? 朴氏が多いのか、崔氏が多いのか、趙氏が多いのか? 皆さんは知らなくても、因縁のある姓氏があります。そうじゃないですか? 因縁のある姓氏が多いのです。それに1、2、3、4、5…と等数をつけていくと、自分を中心として数十等の等差があるのです。

ですから自分のこの体は、この時代のだれだれの息子娘として生まれたけれども、「私」というのはこの時代に平面的にだけ生まれたのではありません。皆さん自体には、多くの先祖たち、すなわち多くのおじいさん、おばあさんの血が混ざっているのです。約四百兆くらいになる皆さんの細胞は、皆さんの先祖の細胞と連結しているのです。

ではそこにおいて、皆さんがどんな姓氏の素性を、どのようなおじいさん、おばあさんの素性を多く受けて生まれたのか、というのが問題になります。また、おじいさんを見るとき、おじいさんが趙氏であっても、純趙氏系統のおじいさんではありません。そのおじいさんのお母さんが朴氏なら、おじいさんにも朴氏の素性に似た部分があるのです。そうじゃありませんか? このようにジグザグに混ざって、全部総合された上で今日の「私」という人間が生まれてきたのです。このように見るのです。

自分がある人を選んだのですが、朴氏だとすれば朴氏に初めて会ったのに、何だか嬉しい…。それがなぜそんなに嬉しいのかというと、自分の先祖たちの中に、朴氏のおばあさんたちが多かったからなのです。朴氏の血統の因縁をたくさん持つようになれば、自然と嬉しくなるのです。このような因縁が皆あるのです。

またある人に出会ったとき、なぜか分からないのに嫌だというのは、先祖たちの間で怨讐になって、お互い相容れない事態が起こって被害を負わせたという、そのような因縁が相対的存在で現れたためです。それで反発が起きるのです。

その次に、大して良くも悪くもない人がいます。このような人は中間的な立場の人です。そういう人は、私が努力すれば動かせる人なのです。私が努力し、精誠を尽くして主体的な役割をすれば、その人は引かれてくるのです。引かれて来てある基準を越えるようになると、同化して自分と同じ道を行けるようになるのです。

自分と合わない人を中心として見てみると、そこには蕩減が起こってくるのです。皆さんこれを知っていますか? 自分と合わない人を伝道するには、ただではいきません。言い換えると、自分とその人が反対で、基準が合わない分だけ、自分が善の立場で代価を支払わなければならないのです。蕩減を肩代わりしてあげなければならないのです。

ですから皆さんの目から見ると、平面世界に一緒に住んでいるように見えるけれども、霊的、あるいは天的に見た場合にはそうではないのです。例えていえば、山や山脈と同じことなのです。ある人はこう行ってからああ行って、またある人はああ行ってからこう行って、またこうして降りていく人がいるかと思えば、このように登っていく人もいるのです。これをこのようにピタッと線を引いておけば、中央線を引いておけば、このようになるのです。

数多くの人間性を描いてみれば、皆さんは「あの人も私と同じだろう」というかもしれませんが、事実を調べてみれば同じではないのです。自分はこれが好きなのに、他の人は別なのが好きなのです。お互いに違うのです。感じ方も皆違います。このように、良い悪いという感覚は、すべて歴史的な背景と因縁によって現れるようになっているのです。(五〇・二五九)

ニ)良い人とは

本当に善なる人とはどんな人でしょうか? 悪なる人がいれば、その人の悪なる点を根掘り葉掘り探し出して、悪が十あれば十だけ憎む人は、善なる人ではありません。その悪を忘れて、その中に宿っている善の価値を、悪以上に評価できる人であるべきです。そうしてこそ、悪なる人に善の立場で相対し、新しい立場で導いてあげ、幸福の条件を示してあげることができるのです。それによってその人は私をお手本にしてついてくることができ、私を中心として関係を結ぶようになるのです。

相手が悪だからといって「悪」それ自体を呪い、悪が十あればそれ以上に悪く評価し、呪う立場に立っては、この地上に「善」自体がありえないということを、皆さんは知るべきです。ですから善なる人とはどんな人か? 悪なる人をも愛し、悲しい人に対しては、その悲しみをその人のものとして放っておくのではなくて、自分の悲しみのように感じることのできる人です。自分がその悲しい立場に入ってそれを蕩減してあげ、自分の喜びをその人に分けてあげられる立場に立つならば、そういう人はどんな環境においてもお手本になることができます。

ではそういう人になるためにはどうすべきでしょうか? 平面的な習慣や観念を超越すべきです。言い換えれば、「私はあの人のために生まれてきたのだから、あの人のために祭物になろう」ですとか、「私は悪人を善人にするために生まれた」と考えなければなりません。生きるのも彼らのため、という観念を持って生活する人なら、環境に難しい問題があるとき、それをそのまま残しておくのではなく、自分の一生の事業と考えてすべての悪を除去し、善にするでしょう。

善になるためには、悪を人ごとと思うのではなく、自分の痛みとして感じながら、夜を徹して彼らのために涙の祈祷をし、彼らの罪のために贖罪の祭祀を捧げる心を持って生きるべきです。そのような人は、悪なる人の本性の中心存在にならざるをえません。(三四・一三〇)

ここで私たちは、良い人とはどのような人なのかを知らなくてはなりません。良い人とは、少年を好きで、青年も好きで、壮年も好きで、年取った人も好きでなければなりません。また、自然に対して人間が主体的な立場に立ったなら、そういう人は春も夏も秋も冬も好きなのであり、それが良い人なのです。(七二・一〇二)

2 望ましい人間関係

イ)愛の人間関係

今日人々は、人に対して余りにも無関心です。横的な関係において、横的な因縁を中心として、お互いに尊重することがほとんどありません。老若男女にかかわらず、皆、人に対して面倒臭がっているのです。人が面倒臭くなると、悟りの道を行く人にはなれません。

神様が復帰の摂理をなしていかれるのに、大韓民国が必要なのではありません。世界人類すべてを必要とされるのです。ですから、人に対する深い関心を持ってこられたのです。これは、今までの神様の摂理の中で一番重要な目標でした。私たちはその目標を果たすために集まった群れといいますが、すべての人に対して、神様と同じ位置で関心を持って対することを知るべきです。

これは表面だけそうするのではありません。本心から湧き出る心を持つときに、先ほど話した因縁の中で最高の因縁が結実する位置に立つことができるのであり、関係を結ぶにおいても、最高の関係を結ぶことができるのです。こういうことを知って、これからは食口が困難に遭ったり、ある環境にぶつかって苦難を受けるとき、お互いに自分が受けているのと同じ心情で、同情心を持つべきです。

だれよりも先立って人を愛するというからには、いくら秋が来て冬のような試練の峠が来たとしても、突破していける生命力を持つようになるのです。そのような生命力は、春に向かって力一杯あふれ、新しい世界の生命の母体になることを皆さんが感じるように望む次第です。(二五・二九一)

私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、この生命、あるいは愛と、どの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれくらいの価値を持っているかという問題が左右されるのです。ですから私たちは、生命力と加重された愛の心を持って対人関係を結び、社会生活をしてきたかという問題を考えざるをえないのです。

万一そのような位置に立っていられないというならば、それは停止するのではなく後退するということを知らなければなりません。(三二・一九)

人と人とが出会うということは、いってみれば、玉突きをするとき、玉同士がぶつかって、あっちに行ったりこっちに行ったりする、その面白味なのです。人と人との出会いも、それと同じような作用をするのです。それがぶつかれば引っ張り合って、一つになってから押し出す、そんな気分になるのです。皆さんがサッカーのボールを蹴っても、そのボールが上がったり下がったり、このように変化無双だからいいでしょう? 同じことです。愛の神様が中心であるならば、その愛を中心としたこの世界を標準にしようとするので…。一体宗教とは何でしょうか? 神様を探しに行こうということです。神様を探して何をしようというのでしょうか? 神様の愛の位置まで行こうというのです。それを確実に知るべきです。そうすべきではないでしょうか?

本来人間が堕落しなかったなら、一気にこの位置に入ったのです。宗教は必要ないのです。愛について何の説明が必要でしょうか? 父母の愛とか、夫婦の愛とか、この世の愛もですよ。自然に分かるのです。自然に分かることなのです。空気のように、人と切り離せないのがその愛というものなのです。自然に分かるようになっているのです。

皆さん、空気に方向性があって、それを探し回ろうとするなら、どのようにするべきですか? どこに行って探しますか? 愛が分かる人は、どこに行っても父母の愛を感じることができるし、どこに行っても愛する人の愛を感じることができるのです。(九一・八二)

ロ)対人関係の核心的要素

「私は人生をこのように生きる」と、しっかり決めるべきです。さあ、私が好きな人、まず悪い人や良い人、幼い人や若い人や年老いた人、人という人すべてに、善なる人が悪なる人にも同じ心を持って対し尽くすということをしっかり決めてしまわなければなりません。

ですから、自分がその人を良いか悪いか判断する前に、自分がその人のために何をしたかということを考えてみなさい。それはどれほどの違いでしょうか。水でいえば、あちらは高いほうの水で、自分は低いほうの水ならば、自分が落ちて下りていくことはできないのです。いつでも自分に接近してこようとするのです。ですから、真空状態になれば高気圧圏は自動的に来るのです。それが原則なのです。(一三一・三三)

皆さんは他の人の前に出ることを躊躇しなければならないし、対人関係においても注意して相手の内外の事情を伺いながら話すべきなのです。(四二・三〇〇)

神様と一致した人になって、万物世界、あるいはこの世界の前に、神様の愛に代わる者として、全体に対して情緒的な基準から横的関係を広げて結んでいくことが、宗教人のしなければならない生活だと思うのです。生活でこれが結ばれなければなりません。生活でこれを成すべきなのです。そうしようとするなら、皆さんはそのような神様の心情に代わって対人関係を結ばなければならないのです。個人であれば個人においての対人関係を結ぶようになります。(八二・二七五) すべての人々に対するとき、欲を持って対してはいけません。(三三・一四三)

3 私たちは信徒ではなく食口

イ)食口という言葉の成り立ち

今日私たち統一教会の教会員が集まったのは何でしょうか? 私たちは食口と呼んでいます。そのようにいうでしょう? 食口が何ですか、食口? ご飯を食べる口という意味の食口ではありません。食口というのは何ですか? 兄弟の因縁を持つべきであるし、父母の心情を共にくわえながら生まれなければなりません。そうしてこそ食口になれます。

同じ父母を持って、同じ兄弟の因縁を持たなければなりません。そうして一つの父母の生活と習慣と伝統を、そのまま相続しなければなりません。それから天の喜ぶ生活形態を持たなければなりません。そうしてこそ食口が成されていくのです。(一五五・二一一)

皆さんには食口として何が必要でしようか? 自分の兄を兄として、弟を弟として、姉を姉として、上下前後関係を知って、自分の位置と環境をしっかり立てるべきなのです。そうして彼らがぶつかり、戦い行く試練は、食口の名詞を持つ者として、兄の受ける試練も自分の試練であり、父母が受ける試練も自分の試練であり、周囲の兄弟たちが受けるすべての試練も自分の試練であり、夫婦が受ける試練も自分の試練であると思うべきなのです。「彼の痛みは私の痛みである」という心情で、その環境にぶつかればぶつかるほど、そこからぶつかってくる反対の現象で、私の体に悲しみの条件が吹いてくれば吹いてくるほど、兄弟の苦痛が吹き飛ばされていき、私たちの前後関係の、父母ならば父母の苦痛が吹き飛ばされていくということを知らなくてはなりません。ですから私たちの行く道を塞いでいる怨讐に対して、戦うという信念が強ければ強いほど、その人は兄弟の中の兄弟になれるし、子女の中の子女として、行く同僚たちの中から保護を受け、守られるのです。これが天地の道理です。

食口としての運命を同じくして行軍する私たちの行路においては、その範囲が広くなればなるほど…。あるときは個人的な闘争時代を経て、あるときは家庭的な闘争時代を経て、またあるときは宗族的な闘争時代を経て、今は民族的な闘争時代を経て、国家的な闘争時代に向かって、世界的な闘争の過程を眺めながら準備する時代に到達したのです。

私たちが行くのは、自分一身が行くようであっても、その一身に終わらないのです。世界のすべての人類、あるいは多くの宗族たちが、私たちの生活と行軍命令に歩調を合わせるのに忙しい、そのような現象が起こるべきなのです。そのようにしてこそ食口なのです。

食口という名分は、前には父母のためであり、左右には兄弟のためであり、希望の善の国、善の主管と善の人類、善の民と善の地球星を創るためなのです。このような厳粛な課題を前において、闘争の波風が起こるべきことを知らなければなりません。私が入るか、私が出るかという戦いで陣を張っていて、また出ている者たちはだれかというと、統一教会の信徒たちなのです。統一の食口たちなのです。(一五三・一八)

今日私たちは手に手を取って集まりました。老若男女を問わず、見慣れない他人同士が集まったのです。私たちには血が通っています。私たちには天情が通じているのです。出発が神々しいのだから、結果も神々しくなければならないのではないでしょうか!(六七・三二五)

ロ)因縁があって出会った私たち

皆さん同士のつながり、神様を中心として結ばれた皆さんの因縁は、何年間かでできた因縁ではありません。その背後には、堕落した悲運の歴史が連結しているのです。またそこには、人類に対する神様の希望があるのです。皆さんはこのような因縁によって、お互いに会いたくて、お互いに恋しい思いを持って集まったのです。皆さんはこのことを考えるべきです。(四九・二一六)

私たちが持って生まれた因縁はどんな因縁でしょうか? 立体的な因縁だということを皆さんは知るべきです。それは今まで歴史上にあった何らかの思想を基調として現れたものではありません。神様の心情と創造理想を基調として、本性の人格を標準として始まった因縁なのです。これはすべての因縁の核心であるがゆえ、絶対視しなければならないのです。(四九・二〇六)

私たちの因縁を考えてみなさい。ここでは私たち同士だけが因縁で結ばれているのではありません。数多くの霊人たちと、天使世界と神様までも…。神様と天使長の間にどれだけ多くの曲折がありますか。曲折が多いということはこぶがまたくっついた、ということです。形でいえば地球よりもこの世界、宇宙よりももっと大きなものがくっついているのです。それはとても大きいのです。あまりにも大きくて、行こうと思っても触れて「ムーニーが来るぞ、事故が起こるぞ」と大変なのです。それが行きながら打っていくのです。危険だ、危険だ、というのです。(九五・一二九)

私たちはそれぞれ異なる因縁によって集まった人たちです。したがって兄弟ではない人々が集まりました。兄弟ではない人々が集まって、肉親の兄弟を支配しなければなりません。それが違うのです。兄弟でない人々が、肉親の兄弟を支配しなければならないのです。そうでなければ、皆さんの家は皆さんと何の因縁もなくなってしまいます。事実それは自分が直接できないことなのです。ですから私たちは、兄弟に対してもっと良くすべきなのです。(四九・二〇九)

ハ)食口同士の留意事項

食口に対するときには、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならないような言葉を言ってはいけません。(一八・四三)ある食口は食口間で気が合わないといって、距離をおいて彼を批判したり裁いたりしますが、それではいけません。(一九・一三八)

先生は食口を非難したり、計画的に食口を妨害するのを見ると我慢のできない人です。世界を愛したい心があるのなら、その愛をどこから始めるべきでしょうか? 私たちの間から始めるべきです。東西南北から選り分けられて、一つの因縁によって集まった私たち同士が、お互いに愛し合おうというのです。会わなければ生きられないのです。会わなくてはいけないのです。このような因縁で連結されているために、統一教会は、それでもこの悪なる世界とは違った何かを持っている、と自負しているのです。それを失ったら、私たちには何の価値もありません。(四九・六二)

統一教会では、けんかがあってはいけません。ここは、互いに愛し合うために集まったのです。愛を受けようという所ではなく、愛を与えるために集まった所です。では愛する方法はどこから習うのでしょうか? 先生から習うのです。先生に会って、先生を愛したいという思いが生じなければなりません。ただお互いに会いたくて、与えたい愛を、兄弟たちにあげるべきです。そうすれば神様は、その何倍にもして返してくれようとなさるでしょう。父母は、兄弟が互いに愛し合うのが好きだからです。

天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは先生について来ようとするけれども、その心で兄弟について一緒に行こうと努力してみなさい。

このように見るとき、天国に一番高く、速く、良く導いてくれるのは、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論が出てきます。父母と夫婦の愛を凌駕した愛を持って努力するものは、最高の愛の主体者として相対者を選択するのです。

皆さんが知るべきことは、天国に行くための訓練は死にもの狂いでしなければならないということです。自分たちがアベルの立場なら、カインを中心として天国に行く訓練をすべきです。これができない天国は井戸の中の天国であり、縦横に相通ずることのできる天国とはならないのです。

今、時は世界的な時です。白、黒、黄色人種は三兄弟です。皆さんは、異色人種が集まって暮らしても幸福だろうかと考えるかも知れませんが、争うことはありません。天国は人種によって行く所ではなく、どれだけ多くの人を愛したかというその業績によって行く所なのです。

マタイ福音書第五章に「平和をつくり出す人たちは…神の子と呼ばれるであろう」とあります。神の子に会えるといいけれど、サタンの息子に対せば対するほど、恐怖と不安が生まれてくるのです。このように見ると、兄弟は自分よりも貴い者です。兄弟のために生きる人は自動的に天国へ行くのです。どこででも歓迎されて、推薦されるということを知らなければなりません。兄弟にために生きる者は中心的存在になるということを、もう一度悟るべきです。

父母の愛と夫婦の愛を再現する兄弟の愛を、どのようになすかというのが、すなわち地上天国をこの地に実現させる方法だということを知るべきです。結局、喜ぶために与え、喜ぶために迎える、これが天国に入る鍵です。自分よりも、兄弟がもっと重要なのだということを、心の中に深く刻まなければなりません。(六六・一二五)

4 万民を愛さなければならない理由

イ)人を愛さなければならない理由

傲慢は怨讐です。傲慢と意地っ張りはサタンの本質であり、サタンの要素なのです。ですから私たちは、傲慢の代わりに謙遜、意地っ張りの代わりに和合しなければなりません。そうでしょう。和而有親です。和同する人、この人にも、あの人にも良くしてあげるような人にならなくてはいけません。そのようにするところから、すべてのことが通じるようになるのです。この人とあの人、二人が一つにならなければ、より大きなものは生まれてきません。和合しなければそのようになるのです。皆さんはそれを知るべきです。サタンの本質には、妬みと嫉妬のようなものもありますが、今はこれだけ覚えておいてください。傲慢と意地っ張りは、私たちには許されません。(三七・一三二)

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これが第一の戒めです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。これが第二の戒めです。第一の戒めは神様を愛して、第二の戒めは何ですか? 人類を愛するのです。隣近所ではなく、人類を愛せよということなのです、人類。人類が兄弟であり、隣人なのです。

神様は、人類を愛の対象圏として望んでいるために、愛する息子娘が神様よりも人類を愛するからといって「おい、こいつ、おまえは間違ってるぞ」とは言わないのです。(一三六・一四一)

人間同士、なぜ愛さなければならないのでしょうか。愛さなければ、神様の愛が回っていくことができないからです。一点も回ることができないのです。縱的な愛の前には、主体と対象の相対的な愛がなければなりません。(三四・二四〇)

ロ)人をどの程度愛すべきか

聖人の道理、聖人とは何でしょうか? ご飯をよく食べるのが聖人ですか? けんかが上手なのが聖人ですか? そうではありません。万民を自分の父母のように、自分の兄弟のように、自分の子供のように愛さなければなりません。自分の子供たちが病気のときには、父母は心を痛めずにはいられません。ですから聖人は、世界の万民が生きている頂上を見上げるとき、自分の痛みの代わりに…。

ですから万民を愛するためには自分の立場を忘れて投入しようとする、このような愛の心を持つこと、それが聖人の道理です。それゆえ聖人の道理は、歴史を越え、時代を超え、国境を越えて、今日の全世界の道徳基準として受け継がれているのです。それが博愛精神です。分かりましたか?(一八六・七四)

人をどれだけ愛したのか? 自分がいつ、ある人のために死んでもいいと考えてみたことがありますか? そしてどれだけ愛したか? どれだけたくさん愛したか? 問題は、人を愛する比率によって心情が変わってくる、ということです。(七三・七八)

皆さんが永遠なる因縁を相続し、残りうる存在になるためには、神様の愛を中心とした信仰の道を行くべきです。そうすればその人はどこで実が結ばれでしょうか? 人、すなわち人類の前に実が結ばれるのです。

ですから人を愛さなければならないのです。人を愛し、人を恋しがるということにおいては、どんな団体よりも強くなくてはいけません。これが人間の意志ではなく、神様のみ旨を中心とした集まりであるからには、必ず全世界に愛の実として残ることでしょう。実として残るのです。

木々が茂って山を覆っているときには、どれが松の木で、どれが柾の木なのか見分けるのが大変です。けれども、秋になり、冬になると現れてきます。冬に葉が落ちて、枝と幹だけが見える中で、緑の木が見えれば、希望を感じます。それは新しい因縁が結ばれたことを象徴しているのです。

これと同じように、どんなに克服するのが難しい環境、死亡の世界におかれたとしても、変わらぬ姿で人類を愛するとき、その人は天の代身者となるのです。

人を愛するといっても、若い人だけを愛するのではいけません。愛するには、年取った人から幼い人まで、すべての人を皆愛すべきです。最近の青年たちを見てみると、年取った人の相手をしないようにしていますが、それではいけません。年取った人も愛すべきだし、若い人も愛すべきです。

愛するにおいて、より愛し、尊敬し、敬わなくてはいけないのは、年取った人たちです。若い人は会っただけでもいいけれど、活動もままならず、力も不足で第三者の世話にならなければならない老人たちに愛を与え、同情してあげなければなりません。しかしそのような風潮は、この社会では見られません。(二五・二八九)