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三 三綱五倫と礼

人は、自分の価値と存在を知るべきです。縦的な基準だけでは自分の価値は分かりません。横的基準だけでも…。言葉だけでは、その人は分からないじゃないですか。行動が伴わないと…。言行心事でしょう。言葉と行動が同じであるべきであり、心と行動が同じであるべきです。それは何かというと、縦的関係をいうのです。

そう、儒教思想というものはみんなそうでしょう。元亨利貞は、天道之常であり…。天道之常とは何ですか? 前に立つべきものが前に立ち、後ろに立つべきものが後ろの立つのが天道之常です。天道が動く状態であり、道理だというのです。どういう道理ですか? 仁義礼智は人性之綱というけれど、仁と義を行うことは、人が行くべき道だというのです。義と礼を備えることは、人が行くべき根本の道なのです。

道を行くにも、東洋思想は、目上の人が先に立たなければなりません。なぜか? 先に生まれたから。このように、環境に合わせようとしてそうするのです。後の人は後に立ち、高いところは高いところ、低いところは低いところ、前のものは前に、後ろのものは後ろに、上のものは上に、前後を整えなければならないのです。そのような観というものは、変わるものではありません。それは永遠に不変なのです。

また韓国の決まりでは、目上の人から何かを受け取るときには、両手でもらうようになっています。それは水平なればこそ、愛を受けることができるという意味です。受けるには、水平を通して九〇度で受けなければならないのです。その道理を象徴しているのです。人心は天心というでしょう? 私たちのすべての規則は、良心の道理に従って、相対的に作り出されてきたものであるので、水平になるべきなのです。

それは何ですか? この二つが合わさらなければなりません。天を省いてもだめであるし、仁義礼智を除いてもいけません。それらを連結させることができなかったのです。ですから、天は漠然とした天になり、仁義礼智は曖昧だったのです。これをどのように連結させるかというのが分かりません。分からないので、この二つの世界形態は歴史において、その実体的基準を形成することができずに、流れてしまったのです。皆さんはそれを知るべきです。

私たちの原理を中心としたものが、二性性相として生まれ、どのように関係を結び、社会のどのような形態を中心として実体圏を残しているかということです。再創造の実体圏です。私たち人間が望んでいる理想とは何なのか? 知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。愛の実績を望んでいるのです。師弟之愛、父子之愛、忠臣之愛、すべてが愛ではありませんか? 天も息子が必要なのです。天子之愛は、独りでは成り立たないようになっているのです。(一八五・二七一、一六八・二五二、一七一・二三七)

今日まで人倫道徳は、親が子供を愛し、子供は親に孝行し、夫婦でも区別すべきである、というものでした。これは三綱五倫の礎として、今まで伝わってきましたが、これがまた変わってきています。このように、既存の習慣や規範などが変わっていく兆しが、社会環境に浸透してくる日が終わりの日なのです。世界的な指導者、あるいはメシアがこの地に現れたというけれど、その方はこの問題を収拾しなければなりません。(一一・一九)