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第四章 模範的生活

第一節 生活の再発見

一 どのように生活すべきか

私たち人間生活においても、一生を生きようとするにはプログラムを組まなければならないのです。ただ、無秩序、無目的に生きてはいけないのです。皆さんは知りませんが、今日、復帰摂理は、ただそのまま無目的になされるのではありません。

今日先生が四〇年間歩んできたは、皆さんはだれもついてはこれませんでしたが、すべて計画的なのです。プログラムに合わせて…。家を建てるとき、設計図があるのと同じように、ブループリント(blueprint:設計図)があり、そのブループリントにピッタリ合っても、自分だけ「できた」と言ってはいけないのです。天と地が見るとき…。鑑別というものがあります。(一四一・一八〇)

人が生きて死んだ後には、必ず生きている間に、豊かに暮らしたか、貧しく暮らしたか、という二つのうちで一つに帰結するのです。その人が、豊かに暮らしていったか、貧しく暮らしていったか、というその二つのうち、ある一方に決定を下しておいてから行くのです。豊かに暮らしていったというならば、その人は善なる人ということであり、貧しく暮らしていったというときは、悪なる人ということです。

では、豊かに暮らしたといえるためには、どのようにすべきか? 豊かに暮らしたという基準は何であり、貧しく暮らしたという基準は何か? 私たちは、生涯を懸けて豊かに暮らすか、貧しく暮らすかを決定する生活をしています。しかし、人間であればだれでもみんな、豊かに暮らすことを願うのです。貧しく暮らすことを願う人はいないのです。

今、世の中をじっと見てみると、外部的な要因を見て、その人は本当に豊かに暮らす、というときがたくさんあります。普通、豊かに暮らす人だといえば、外的に満ち足りるほどに、家を持ち、お金を持っており、夫と息子・娘とともに自分がしようとすることをするのに、支障を受けないほどの環境を備えて暮らす人をいいます。一般的にそうなのです。

しかし、環境的にいくら豊かに暮らすという言葉を聞きながら生活するとしても、自ら「私が果たして真なる生活をし、私が果たして善なる生活をしているのか」と心に尋ねるとき、自信を持って「私は真なる暮らしをしている」と言える人は、それほど多くないのです。老若男女を問わず、どこのだれもが等しく、真なる暮らしを願っているのに、真なる暮らしをしている人は多くない、という事実を皆さんは知るべきです。

このように真なる暮らしを願っていますが、真なる暮らしができないようになっている環境で暮らしている存在が、すなわち私たち人間であるのです。大多数の人間は、暮らしてみて、後悔の結末にぶつかるようになり、一生を無駄に生きたと嘆息するようになるのです。このようなことが、今日私たち人間たちの生活様式であるのです。(四三・二四二)

今日、統一の若者たち、皆さんは、自称して「私たちは歴史的な人物だ。歴史的な結実だ」と言います。果たしてそうか? 問題です。果たしてそうか? 甲という人を見て「お前は何をするか?」と言えば、「私は生きる」と答えるでしょう。「どのように生きてきたか?」と言えば、「このようにして生きてきた」と言うでしょう。個人を見て大多数の人が「お前はどのように過ごしてきたか?」と言えば、「ご飯を食べて生きてきた」と言うでしょう。「お前はどのように暮らすか? 豊かに暮らすか、貧しく暮らすか?」と言うとき、大多数の人は、家があり、小さな畑があり、抱えるところの生活環境があり、支障を感じず暮らすという見地から答えます。

暮らすには暮らしているのです。今日大多数の人間たちは、どのように暮らすか? 暮らすには暮らしますが、生活を通じた生活は営むことはできます。しかし、暮らすのには、そうしてだけ暮らすのではありません。分かりますか? それよりも一段階高めて暮らす人は、どのように暮らす人か? ご飯を食べるには、同じように食べて暮らすのですが、考えながら暮らす人がいるのです。ご飯だけ食べて、酒だけ飲んで暮らす人がおり、考えを抱いて暮らす人がいるのです。分かりますか?(一五一・七〇)

生活において敗れる人は、信仰の道においても敗北者になりやすいのです。

生活環境において、サタンと神様が、自分について互いに奪い合う闘いをしているのです。(一八三・二九八)

サタンを神様とどこで分別するのか? 霊界で分別するのではありません。どこでするのでしょう? 生活。自分一人において、それは良心・肉心です。近くて内的な内容は神様側、肉心的なものはサタン側です。

手と手を合わせてみれば、その手の形は同じです。しかし、一つの手は右であり、もう一つの手は左です。このように考えてみれば、同じもののようですが、互いに違います。従って、右左を分別して、どちらが前に行くのであり、どちらがついていくのか、という問題を私たちは、はっきりと知るべきなのです。(二四・二一五)

近頃になって、原理は原理なりに回ってですね、皆さんは皆さんなりに回り、また、教会は教会なりに回っているのです。私はそう感じるのです。原理を習ったら、習った通りその原理の上に自分が立つべきなのに、原理の上に皆さんと教会が立っていないで、全部別々です、これは。これでは大変なことになってしまいます、これでは。一〇年勉強南無阿弥陀仏という言葉があるでしょう? このままでは、すべてが無駄に終わってしまうでしょう。(一〇九・三〇八)