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二 私たちが持つべき生活意識

先生が今まで皆さんに強調したのは何か? 過去に漠然と暮らしてきた生活を、今から具体的に暮らすべきです。(一八・一七八)

個人の生活はどのようにすべきかということを、確実に究明すべきであり、また、家庭の生活はどのようにすべきか、ということも確実に究明すべきです。(二四・二九)

最後に残るものは何か? 人間が構想していた哲学でもなく、いかなる人生観でもありません。神様プラス人間、神人、神人の生き方、神人の生活観です。人生観も同じく、神人人生観、神人世界観、それが統一された…。それが、神様に対して漠然と人が分かる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようとしても離れられない位置です。なぜ? 神様と人間は、本来離れられない位置から離れたために、その離れられなかった位置以上の位置に到達すべきです。そのような位置で神人がひとつになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して立ち上がるべきです。(六五・一二七)

皆さんは現在どこに処していますか? 統一教会を中心としてどこですか? 統一教会の教会員は夜も昼も、いつどこに行っても、先生とともに歩調を合わせなければなりません。今まで先生は、この頭でもって生きてきたのではありません。神様とともに、神様が行く方向に歩調を合わせながら、すべての生命を皆投入しながら生きてきたのです。

今は、三合(神様、先生、皆さん)が一致すべきです。歩調を合わせるべきなのです。生死の決定的内容が懸かっているため、三者が一致する点で一つになるべきなのです。言い換えれば、その点に生命の復活圏があるのです。その点が、父と先生が一つになり、先生と皆さんが一つになり一致しうる連結点です。そこで一心統一がなされるのです。それゆえ、皆さんはみ旨と一致した生活をしなければなりません。(三一・三二一)

皆さんには三者の心情が一致(父のみ旨と、皆さんの志と、皆さんがこれから復帰する霊の子の志、時が一致し、人が一致し、方向が一致する位置)する中で、一日なら一日の生活をどのようにしていくか、また、一月なら一月の生活をどのようにしていくか、一年なら一年をどのようにその基準で収拾していくか、というのが問題です。(二四・一三三、二八・八〇)

皆さんは、自分を点検してみるべきなのです。動機と一致し、目的と一致し、主体と一致しているか? 自分が動機と目的が一致できず、主体の前に対象的な位置に立てない自分を発見したときは、動機と目的に一致し、主体と一致すべきだということをいつも考えるべきなのです。主体対象関係確定、方向性確定、その次に目的性がはっきりしなければならないのです。皆さんは、それを考えながら動きましたか、今まで?(六六・二五七、一〇八・八三)

神様が願う生活はどんなものか? 自分を中心とした生活ではありません。自分を中心とした生活ではないのです。それゆえ、私たち統一教会の信徒たちは、部屋に地球儀や世界地図をきっちりと掛けておいていつでも考えろというのです。「神様が今日どこに行くのか? 私が心をこのように持っているけれど、天地を創造したその神様は、私だけを見つめているか? どこに行くのか?」それを考えるべきです。(一五五・二四八)

単調な生活が習慣化し、それが人間の人生だと考える人は、世の中に属す人に過ぎないのです。その俗な生活環境を開拓して、その俗な環境に、より高次的な価値の内容を付与する生活ができなければなりません。それでこそ、悪い世の中で善の立場を決定づけることができるのです。外的な生活を支配する生活ができない人は、信仰者といえません。天の人といえないのです。

それゆえ、人は修養が必要です。活動することだけではいけません。活動してから、静かに座って、上下を抱き、左右を抱き、合わせることのできる生活をすべきなのです。そうしておけば、間違いなく人は本質的基準を中心として、必ず縦的側の位置にとどまるのです。(一八五・一八二)