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三 体質化されるべき生活方式

1 神様を中心とした生活

すべての宗教では、見ることをみだりに見ず、聞くことをみだりに聞かず、話すことや接することをみだりにするなといいます。ですから、見ることも、聞くことも、話すことも、感じることも、愛することも、全部神様を中心とするのであって、自分中心にしてはいけないということです。(六六・二三一)

私たちが話して、聞いて、見て、感じて、また、感情的に体感する一切も、神様を中心として因縁づけられたものであらざるをえないのです。(五三・二三九)

一日二四時間の生活圏内で、自分が見て聞いてしたすべてのことは、何のために見て聞いたのか? 神様のためにです。神様のために、見て聞くべきなのです。また、感じることも神様のため感じるべきです。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活すべきです。(三五・二八四)

ご飯を食べるときも「お父様、先にお召し上がり下さい」と言うべきです。(一一・二一八)

良い食べ物を食べたり、良い服を着るときは、ただ食べて着てはいけません。最も良いものは、先に神様にお返しするべきです。道を歩くときも、右側にはお父様、左側にはお母さまを迎えて行くべきです。(二四・一八一)

「ああ、私はお腹がすいた。ああ、腹が減った。飯、飯、飯!」こう言いますが、それはだれのために食べようというのですか?(神様です)。そうですか? 神様のために食べるというのですか、自分のために食べるというのですか?(神様です)。それを考えるべきです。それはどうして神様のため食べるのですか? 神様の完全な聖殿を自分がつくるべきなのです。神様の聖殿を完全に…。それで「中にいる神様がご飯を食べようという」このように考えろというのです。「中にいる神様がご飯を食べようという、お腹がすいたから」このように考えろというのです。分かりますか? そのようにご飯を食べれば、そのご飯は聖なるご飯なのです。ご飯がご飯様になるのです、ご飯様に。

その次に、便所に行くときはどう考えるべきですか、便所に行くときは? 便所に行くときはどうですか? 自分のために行きますか、全体のために行きますか? 同じです、同じ。この聖殿に支障があるだろうから、神様曰く「便所に行けという」このように考えろということです。

息をするのは、息をするのはどうですか? 同じなのです。また、聞くことは? 自分独りで聞くのだと考えるなというのです。見ることも、触ることも、全部…。自分独りですると思うなということです。人に対するとしても、サタン世界に対するとしても、神様の人間が対すると考えろということです。言葉を話すにも、神様が話すと…。

本来そのように完全に一つになった後には、自分中心に生き、自分中心に考え、自分中心に愛するのが原則なのです。それを知るべきです。それを確実に知るべきなのです。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心としとして愛することになるのです。それが原則というものです、原則。(九二・一六六)

主体と対象の因縁が間違いなく分かったからには、全面的にすべのものが主体のためのものになるべきなのです。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また、食べることもそうです。ご飯を食べるときも「ああおいしい。ああおいしい」このように食べるのは、自分のために食べるのですが、主体のために食べれば「本当にありがたいものだ」と言うのです。「このような環境に私を連れてきて置いてくれたために、今日このような席でご飯を食べるんだなあ」と言うなら、独りで食べるのではないのです。それは主体のために食べるのです。寝るのもそうなのです。「ああ、私が寝るから、このようにこういう場所で眠るのだ」と言うのではないのです。「ああ、天が導いて、滅びる運命で終わりを見ても恨みのない私が、今日このようになったのは、その滅びうる運命を妨げるために、天が幾度となく苦労された功があるためだ。本当にありがたい」と言うべきなのです。

それゆえ、主体のための対象の位置は、不平がありえないのです。不平がありえますか? 不平は盲動です。破綻です。それゆえ、信仰の道は不平を許さないのです。何を許しませんか? 不平を許さないのです。それゆえ、感謝だけあるべきなのです。皆さん、それを知るべきです。

天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体とともに相関した運命を持って、それに離脱する生活の礼法、生活の形態はありえないのです。ですから、報告をしなさい。どこかに独りで行っても、独りでいるのではありません。どこかにすっと行って座っても、前後に天が来て共に座るのを感じるのです。そうして、何か鑑賞するようになれば、心でそれを感じるのです。お父様はこのすべての景色を眺めて、どのように感じるのか? ソウル市を眺められるとき、どのように感じるのか? その歴史、その世界がそうならば、そこに必ず関係を結んで入ってくるのです。このような問題等々を中心として、いつも皆さんは天が主体である、ということを忘れてはならない、ということを確実に知るべきです。そうでなければ、体恤的信仰圏内に入れないのです。

天理というのは、順序を正しく守るところに成立するのです。それゆえ、主体と対象関係で、天は絶対的な主体だという立場に立つべきです。その主体を無視する人は、対象になれません。私は絶対的な主体の前に、絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つです。それゆえ、見て聞いて感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、全部対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

主体と対象がよく授け、よく受ければ、何が起きるのですか? 起きるには起きるのですが、よく授け、よく受けたか、間違って受けたかという比例に従って結果が現れるのです。(五八・三一〇)

2 真の父母を中心とした生活

皆さんは今、真の父母とともに生きるべきです。それゆえ、真の父母はおじいさんの立場であり、自分のお父さんお母さんの立場であり、自分たちは長子の立場であるのです。これが違うのです。三代にわたり共に暮らすという結論です。神様が自分とともにあり、真の父母が自分とともにあり、自分の父母が共にあるのを感じて暮らすべきです。神様がいない、死んだと考えられない時代に入ってきたのです。(一三一・九七)

心情的因縁を通じて、堕落したために、堕落の門を開けて取り除くには、それよりも高次的な心情的力を持たずしてはできないのです。それが原理なのです。それゆえ、皆さんが先生に会いたくて涙を流し、大騒ぎすれば、先生はサッと現れて教えてくれるということが起きます。

皆さんが、道を歩いていて、何か良い生地があれば、あるいは良いものがあれば、それをつかんで「ああ、胸が痛くて離れられないなあ。これを先生に持っていって差し上げたい。私がいかなる犠牲を払っても、持っていって差し上げたいなあ」という心がわき出て、全身がぐったりとするのを感じ、神様がかわいそうなことを感じながら、涙ぐむ境地に入れば、すでに先生が、それが洋服ならそれよりもっと良い洋服を着て、良いネクタイを締めて「ハハ」と笑いながら現れ「なぜ泣くのか?」と言う場面が展開されるのです。「私には、良いものがみんなあるのに、なぜそうなのか」と言うことが、現実的に起きるのです。

それゆえ、統一教会の文鮮明という人は不思議な人なのです。皆さんが知らない不思議な人です。不思議な背景を持っています。アメリカであるとか、世界各国の人たちが、先生が行く約束をしたら、懐かしさが高潮して、自分でも知らず、寝て起きては「先生、いつ来られますか?」と言うのです。そのように、身にしみる境地に入ると、両目が開いてしまいます。それで「会いたい。会いたい」と言えば、先生が「ああ、そうか」と言って、エデンの園にも連れていって、見学させてあげたりするというのです。そのとき、その人たちは、それが霊的であるということが分かりません。実際にそのようなことが起こるように感じるのです。その道でなければ、そのような世界が開きません。

それゆえ、皆さんは、目が崩れ、鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人は泣きすぎると、ここがとても痛くなります。それほど身にしみて慕うべきです。「お父様」と言って呼ぶには、死刑場に引かれていく息子の立場で、父親を呼ぶ人もいるであろうし、他の遠い国に発つ息子の立場で、悲しげに父を呼ぶ人もいるのではないか。それゆえ、天のお父様を呼ぶときは、そのような基準以上にならなければならないのです。

天のお父様に会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。(五〇・二八八)

一切を父母とともに関係づけ、父母とともに決定し、父母とともに相談し、父母とともに解決しなければ…。(四四・一七五)

3 善を中心とした生活

初めの出発から、中心と方向を一致させていく人は、終わりと初めを連結させることができるために、最後の勝利は、主体のものであると同時に、初めから終わりまで行った人に帰ってくるのです。このようなことを知って、皆さんは中心を持って生き、中心を持って生活しろというのです。(五七・二七七)

歌を聴くときも、善悪があります。見て聞いて、ご飯を食べたり、寝ても覚めても、すべてのことには善悪があるのです。(二六・一三一)

寝ても覚めても、食べても、休んでも、見ても、何をするにも、全部み旨を中心としてすべきです。(七三・六一)

現在の立場は、いつも善悪の分岐点に立っていることを忘れるなというのです。それゆえ、言葉も善なる言葉を話すべきであり、この目で見るものも善なるものを見るべきです。女たちはよくよそ見をするでしょう? それゆえ、こいつの目をコントロールすべきです。目を制御して、五官をみんな制御すべきです。自分が歩む一歩一歩がすべてどこへ行くべきか? 友達に会ったり、人に対するにおいては、それでも自分に会って、彼が一歩でも善の面に帰れるように、公的な言葉が言えなければなりません。このようなことを生活圏内で操って、そうしながら自分はあの世界の人類のために、愛の旗を掲げて行くのです。勉強もそれでして、仕事もそれでしろというのです。そうすれば自然に回るのです。(一〇九・三〇七)

4 一つの目的に一致した生活

個人が地上に来て、成功するかできないか、また、生活を通して目的としたことを成就させうる一日一日を残すか残さないかという問題はどこにあるのか? その目的を中心にして、その目的に対する確実な観点を立てて、そこに的中しうる方向、一致しうる方向をどのように備えていくのかが何よりも重要な問題なのです。

いくら一つの目的を持って出発したといっても、その方向が食い違えば、その目的とは関係がなくなるのです。それゆえ,目的を持って進むときには、いつも方向の一致という問題を私たちは注視しなければならないのです。

この方向の一致ということを中心として考えてみると、その目的と自分は直線上に立つべきなのです。目的と自分とはいつでも相対的関係であるために、私たちは直線の上でその目的と相対する位置に立たなければならないのです。私たちは生活の中においても、右足を動かし、左足を動かすとき、その目的と直線で一致する位置を取らずには、必ず食い違うようになっているのです。たった一歩でも踏み損なえば、食い違いが起こるのです。右に偏ってもだめであり、左に偏ってもだめです。

それゆえ、中庸の姿勢を取って、その目的と引かれる直線上で、一致化させうる自分を発見するところから、目的の結果は達成できるのであって、その直線を無視して、その直線と一致できない時間的な基台の上に立つようになると、目的を達成しうるその道から、すでに脱線して進んでいるということを、私たちは知るべきです。

私たちが話しをする、あるいは見て感じる、すなわち、五官を通じて感じとることにおいても、自分独りで感じてはならないのです。自分独りで感じるという、そのような立場に立ってはいけません。その目的と一致する方向を持ったところで感じるとき、その場所は共同の目的に向かって、共同的立場で、共同的な方向を取る所であるため、神様が決して共にあらざるをえないのです。これが食い違えば、神様は共にいられないのです。

なぜそうなのか? 方向を間違えると、苦労したことがすべて水の泡になってしまうためです。そこに協力すれば協力するほど利益になるのではなく、必ず互いに消耗するのです。無駄なことになるために、そのような所に立つときは、神様が協力できず、共にいることもできないのは当然なことであらざるをえません。

私たちが朝起きた後、感じるすべての感覚や動作が一つの目的を中心として、いつでも直線上に帰一できなければなりません。その点を失ったときには、み旨と自分は関係を結ぶことができないということを、私たちは否定できないのです。(五七・二三二)