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1 成功に対する理解
人間はだれもが成功しようと決心をします。この世の中で、大きな目的を中心として、成功を夢みない人はいないでしょう。そうして個々人が目的を成すために、夢を持って進みますが、その目的を成し遂げた人は、極めて少ないのです。(四三・二〇)
一生において成功の頂上に上がる人もいれば、成功できない道を行く人もいます。山でいえば、峰はだんだんと高くなるのに、ある人は「ああ、私の頂上はここだ! ここもやっと越えた」と言えば、分水嶺から一歩だけ行けば、全部越えるのにもかかわらず、横になってしまう人がいます。倒れるにしても、体の何百分の一でも中央を越えて、向こう側に倒れれてこそ、向こう側の管理を受けるのであって、何百分の一でもその境界線から越えられなければこちら側の国の管理を受けるようになるのです。
サタン世界と天の世界も同じです。ある人は、このような基準を中心として「ああ、成功だ!」と言って喜ぶ人がいるでしょう。ある人は、このような基準で生きたであろうし、ある人は、あのような基準で生きたでしょう。ある山脈を中心として「どの峰が高いか?」と言うときに、低いところを指して「ここが高い」と言う人がいますか? 高い山を中心として見るとき、いちばん登ってみたい山がここだという人がいますか? 彼は狂った人です。人のうちにも入れないのです。(六三・三三)
皆さんの生涯路程の中で、自分が成功したとして、休む人は滅びるのです。その成功は、自分だけを中心としたものであってはいけないのです。
今日、統一教会は、個人が成功したとして終わるのではなく、大韓民国の成功のため進んでいくべきです。そして、そこで止まらず、また世界の成功のため走っていけば、走っていったそこまで、私たちは発展し、残るのです。(二六・一三二)
2 先生の成功の秘訣
若い人たちは、皆出世したいし、成功したいでしょう、偉大に? そう簡単ではないのです。韓国の格言にあるように、念を入れて作った塔は崩れないのです。これは一理あります。どこかへ行って、帰ってくるとき、いいことをせずには、絶対に帰ってこないというのが、先生の哲学です。どこかへ行って、帰ってくるときは、いい実績を残さずしては、帰ってこなかったのです。家でもそう考えたのです。(一四四・三〇一)
宗教的であれ、経済的であれ、成功するためには、まず損してみなければ、その目的がなされないのです。事業家が苦労もしないで、やくざのように遊んで成功できますか? 苦労すべきです。心の苦労、体の苦労、内外すべての試練と苦痛を克服するため、一身のすべてを投入すべきです。それでこそ成功できます。そして、損をしたという結果を立てておいてこそ、困難を克服することができ、その困難を克服しただけ成功となって帰ってくるのです。(二六・四七)
人が成功する秘訣は何か? ある目標に対してどこにでも行きたいという、一体の感情に通ずる者になるべきです。そのような人たちは、成功を早くしますか、遅くしますか? 成功を早くするでしょう? 早く出会うのです。もし出会えなければ、夢ででも出会うのです。(六三・六〇)
先生は追い込まれる環境の中でも、このように成功した秘訣は何か? 私の生涯においてその秘訣は何か? 先生は、アメリカならアメリカという国が反対するとき、私がそのような位置で、神様と同じ位置で、アメリカを対等な位置に立てて、神様の名で前進したのです。神様の名で! その壁を打ち抜くには、力ではだめです。お金でもだめです。権謀術数をもってしてもだめであり、いかなる人間の知恵をもってしてもだめです。(一六六・一六三)
成功しようとするなら、全体のために生きよ。(一五・二八九)
継続していく人は、成功するようになっています。(一八六・九三)
3 勝利の秘訣
今日私たちが計画したすべてが失敗して、敗者になるならどうしますか? 大きな願いを持つ人においては、その人のの行く道は失敗できません。ただ前進に比例して、勝利があるだけです。このような覚悟の下で進むべきなのです。そうすれば必ずや勝利するようになります。進撃するためには、死ぬか生きるか、二つに一つを選ばなければなりません。
皆さんは、必ず勝利すべきです。そのためにはどうすべきか? 人が一度勝つなら、自分は二度勝ち、人が一時間寝るなら、自分は三〇分だけ寝て、人が一食食べるなら、自分はその半分だけ食べる、という信念を持って闘うべきです。勝利の秘訣は、他の所にあるのではありません。どれくらい時間を多く割き、努力をたくさんして、資本を多く投入したかに懸かっています。
あたかも、入学試験を前にした受験生のような、時間との闘い、精神との闘い、努力との闘いが重要なのです。落第した人たちは、人よりもっと寝たり、もっと食べたり、とにかく人より一つでももっと楽に過ごした人たちなのです。(一九・一四三)
皆さんは、忍耐がどれほど貴いかということを知るべきです。忍耐が。忍耐がどれほど貴いか? さあ、忍耐は再出発の動機であり、最創造の動機にもなりえます。
思えば、神様も今耐えておられます。耐えるのです。アダム・エバが死の場へ進むとき耐えたし、イエスが十字架に掛けられ、トントンと釘を打ちつけられるときも耐えたのです。知っても知らぬ振りをし、そうであるにもかかわらず、そうでない振りをして対したので、あきれるのです。皆さんもそうではないですか。ある人が自分に対して、全部知っていても、知らない振りをして対したら、どれほどあきれますか? その人だけを見るなら、自分が闘って、どこか足の下でも入るのに、行くところがないために屈服するのです。それゆえ、たくさん耐えることは、たくさんのものを所有できる動機になるというけつろんは、妥当な結論です。分かりましたか?
さあ、あなたがたの家庭もそうなのです。家庭でも兄弟たちが騒いでも、耐えて、耐えて、このように行けば、父母でもだれでも、みんなその前で祝福してくれるのです、「あの子は、見ていろ!」と言って。
それゆえ、ここで一つの規定をして先に行きましょう。自分のためには、耐えることが良く、人のためには口を開くのがいいのです。さあ、ある人が難しい所にいれば、自分が難しいことを口を開いて慰めてあげ、その人が陥れられたら、知っていても知らない振りをして、ただ口を開いて擁護してあげるのです。それゆえ、自分がここで勝利できる秘訣、勝利できる一つの必要な土台を、あるいは動機を探すなら、耐えることがどれほど貴重かということが、皆さんは分かるでしょう、今や。東洋には、そのような格言があります。「耐える者が勝者である」という格言があるのです。理解できますか、何のことか?(七六・二二〇)
皆さん、綱引きをするときだれが勝ちますか? 勝利する人はだれか? いきなり力を入れる人が勝利しますか、粘り強い人が勝利しますか?(粘り強い人です)。虎が力を出すように、いきなり「ワッ」と一度に飛びかかって、後で「フフーン」という力をもってしてはだめなのです。粘り強さがなければなりません。「ブーン」とこうして、辛抱しなければなりません。辛抱してやめたらだめなのです。終わりまで辛抱しなければなりません。それゆえ、聖書には、終わりまで耐える人は地獄に行く?(天国に行く)。それは何ですか? 終わりまで耐える人は負ける?(勝つ)。同じです。天国に行くのは勝つことであり、地獄に行くのは負けることなのです。終わりまで耐える人が、闘って勝ちます。(六四・五七)
勝者になるためには、思想、すなわち、自信が必要であり、勇気が必要であり、その次に三番目としては、闘争が必要なのです。(一八・一二)
4 成功の前には試練がある
人が大きく成功しようとするには、それに比例する試練が伴うようになっています。(二七・一八一)
私たち個人の運命も同じです。その人が当代に成功するかしないか、あるいは、輝く栄光の時代を迎えるか、悲しくもはかない生涯を残すかという問題は、彼が生涯の路程を生きていく過程を見れば分かります。彼が生まれながらにして生きていく過程が、どれほど歴史的な方向と天運の方向に一致しうる事情があるか、あるいは、そのような事情と主義を持って、自分の生命を越え、未来を追求する心情で、自分に降り懸かる事件にいつも正面からぶつかった内容を持つかというのが、その人の現在の人格と、未来に残りうる人格を左右し、その人があがめ奉られうる中心になるかならないか、という問題を左右するのです。
だれでも、結果の時点では、成功というものを歓迎するかも知れませんが、過ぎた過去、成功に至るまでの過程というものは、だれも歓迎しないというものです。成功を収められるまでの過ぎ去った日を思えば、身震いがしてやめたい、恨み多い、歴史的な日々の連続であったことでしょう。自分の父母や、自分の兄弟姉妹、友達、あるいは子供や夫婦に至るまで、全部同じであるのです。(二七・二七三)
人が所信を持って、自分の目的を成就させるためには、必ず闘争の過程を経なければなりません。願いが大きければ大きいほど、その願いを成すには、相克的な要素が立ちふさがっているのです。このような要素は、自分に吸収されるのではなく反発し、自分をもてなすのではなく追い出そうとするのです。大きな目的に向かっていくときには、その目的に比例する受難の道があることを、私たちは知っています。(四三・二〇)
一息に成功すれば、一息に滅びるのです。皆さんもこれを知るべきです。何らの基盤もなく、一息に成功すれば、盗賊にあっても防げず、台風が来ても何もかも失う。ようになるのです。それゆえ、一息に成功してはいけないのです。
私たちは、大きな抱負と大きな理念を持つべきです。その抱負と理念を支えられる自分になるためには、一度に成してはいけないのです。欲ではすべてのことを一日にみんななしたいのですが、そうしてはならないのです。皆さんの中には、反対する人を見て「ああ! あの怨讐め、神様側でない人は一つもなくしてしまい、私たちだけで環境を改善すればいいのに…、神様はいらっしゃらないのか?」このように考える人もいるかも知れませんが、そうではありません。
地が固まるには、雨が降らなければなりません。だからといって、続けて雨ばかり降ればどうなりますか? 続けて雨ばかり降っては、何もなりません。陽が出なければなりません。だからといって、陽だけ出てもいけません。風も吹き、寒くもあり、暑くもあり、凍ったり溶けたりしながら、長い期間が過ぎなければなりません。長く過ぎれば、過ぎるほど、もっとしっかりと固まるのです。そのようにしっかりと固まった地を掘るには、それ以上の力を加えなければ、掘ることができないのです。そうでしょう?(一九・三五)
私たちが一生の間生きていくには、多くの峠があります。一日を生活するにも、峠があるのであり、若い青春時代なら、青春時代にも峠があるのです。また、家庭を持って、家庭を率いていくにも峠があり、社会生活をするにも、やはり峠があります。すなわち、個人から社会、そして国家が行く道の前には、その運命を決定しうる峠があるのです。世界を考えてみて、やはり同じです。
このような観点から見るとき、万事は一つの頂上という峠を中心として、因縁づけていくということを知るべきです。私たちはよく、だれが成功し、また、だれは失敗したということをいいます。では、成功したという人は、どんな人か? 自分の目的とした峠を越えた人です。失敗したという人はどんな人か? その峠を越えられなかった人です。私たちの日常生活を考えてみても、生涯の路程で、自分が目的としたところを成就すれば、人生に成功した人であり、それを成就できなければ、失敗した人なのです。(三一・七)
5 成功できない主な原因
人は成功できる道を知らないのか? みんな知っているのです。それゆえ、ここに問題が生じるのです。みんな知っているのに、なぜできないのか? なぜできないのかというのです。成功する方法はみんな知っているのです。知っています。知りませんか?(知っています)。けれど、なぜできないのかというのです。それは、自分自身を操縦できないためです。そのような結果に止まるのが人間像であるということを、私たちは知るべきです。(九七・一三)
人間が自分自らすべてのことを計画し、自分自らの資質だけを持って、目的を成就しようとすれば、必ず失敗をもたらすようになるのです。それは、今まで進行した歴史過程を見ても分かります。人間自身を中心としてつづってきた歴史は、いつも失敗したのです。(四二・二九八)