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三 偉大になる道

1 人はだれでも立派になることを望む

私たち個々人を見ると、お前はどんな人になりたいかと尋ねると、だれもが立派な人になると答えます。立派な人になるなら、どの程度立派な人になるのか? 大韓民国なら大韓民国の国民の中で、いちばん上の大統領になるのか? 大韓民国だけを考えれば、どこのだれでも大韓民国で一番になりたがります。しかし、大韓民国で一番になったとして、それで終わるのではありません。その次のは、世界で一番になりたがります。世界で一番になった後には、どうするだろうか? 世界よりもっと高いものがあり、もっと高い方がいらしたなら、その位置に行くことを願い、その方と手をつなぎたいのです。(四一・三二三)

2 歴史的人物になるには

イ)高い志を持って、深いことをすべき

大きな人とはどんな人か? 大きな人は何ですか? 高い思想を持ち、深いことができる人が大きな人です。分かりますか? 高い志を持って、深いことを、人ができないことをする人が、大きな人なのです。彼はなぜ大きな人なのか? 彼は垂直的な立場を上り降りしながら働く人であるためです。(一七五・二三四)

ロ)決心を持続できなければ

皆さんを見ると、凡人が行く普通の人生の道があるだろうし、聖人とか、あるいは偉人が行く特殊な人生の道があるでしょう。皆さんの考えは、どんな人になるのかといえば、「ああ、私は偉大な指導者になる」とみんな言いますが、それがそのようにいっぺんになるのではないのです。偉大な指導者になるためには、その過程で多くのことを消化し、多くのことを犠牲にして進まなければなりません。犠牲を払って、その犠牲になったものを、そのまま犠牲として捨てるのではなく、犠牲になった価値を収拾できる人になってこそ、彼は偉大な人になりうるのです。

では、偉大な人物というとき、その人たちは、どのような基準を中心として闘っていった人たちか? 端的に話すなら、その人たちは命を投げ出して立ち向かった人たちです。命を一度懸けて済みますか? 継続的に投げ出す過程を経るべきなのです。(六七・八八)

世界の歴史上に現れた、英雄であるとか、聖人たちは、とても幼い頃に決意したその覚悟を、死ぬときまで胸に留めて、その目的の中で生きていきます。簡単なのです。先生もそのように生きています。それゆえ、寝るときもそれに向かっていきます。起きるときも、目を開けても、だれかと交際しても、その材料を求められるようにつきあいます。そのようにしていけば、自然と生活環境が自分の将来の舞台のための基準になります。みんなそうしていますか?

現代の若者たちは、もしこの花からいい香りがするとすると、これがいいともいい、また、東にいい香りがするというと、そちらに香りを求めていきもしますが、そのようにしてはいけません。右だと考えたなら、その一つの所に力強く進み、それを克服して、それが自分に消化され吸収されるか、自分がその側に吸収されるかという問題を定めるべきです。そのように前進しなければなりません。(一五・一二九)

歴史的に見るとき、偉業をなした大部分の人物たちは、決して学者・博士たちではなく、彼らとは関係のない闘志のある人物たちでした。人が見ても、無謀に見えることをした人たちが歴史的な人物になりました。すなわち、歴史は闘士たちがつづってきたのです。(一八・一二)

ハ)受難の道を自ら求めよ

人が人生を歩むには、平坦ではありません。その上、独りで生きるのではなく、男女が共に生きるのです。男女はみんな違います。極と極なのです。異質的な、二重背反的な性格を持った男と女が、一つになって生きるには、二人とも良くはなれないのです。一人は上がり、一人は下がり、こうしながら、その中央線を中心として合わせていくのです。

ですから、若い頃には、そのような訓練をすべきです。偉大な人になりたければ、偉大な受難の道を自ら求めていくのです。一〇〇里の道、苦労するために夜通し一〇〇里でも歩いてみろというのです。人のために一日奉仕してあげるために、夜通し一〇〇里の道を、疲れた体を引きずっていき、朝に行ってご飯を食べて、農地なら農地、仕事場へ行って、その人のために犠牲になるその精神が…。楽に寝てしまってはいけないのです。(一一四・二九九)

ある人が、特別な道を行こうとするとき、その特別な内容を決定づけうる材料や要件は、普通の人々が好きなものではありません。その道は歩み難い山道であり、越えるべき障壁が横たわっており、望まない事情が前に立ちふさがる、そのような道です。しかし、ふさがったといって、回り道をしてはいけません。なぜならば、そのようにして目的とする所に到達できるならだれでも行けるため、千人が千人みんなその道を行くでしょう。そのように道は、だれでも行ける道であるために、特別な人だけが行く道ではないのです。

特別な人は、回り道しないで、その道を突き進んでいくべきです。直行し、最短距離を突き進むべきなのです。問題がそうなっています。そうするためには、何倍もの試練を克服しなければなりません。そこには、普通の人たちが想像できない事実が介在するのです。ですから、これを打開して、克服できる自分にならなくては、その道を行くことはできないのです。(二七・八)

ニ)第三の力を補強せよ

偉大な人がいて、彼がある大きな目的に向かって走っていくとするならば、その目的が大きければ大きいほど、偉大ならば偉大なほど、そこには国家を内包し、世界を内包した事件が宿っているでしょう。その事件というのは、その偉大な人物が行く途上に、歓迎の条件ではなく、相入れない反対の条件として登場するでしょう。その現れる反対の要因が大きければ大きいほど、落ちていく要因にもなりうるのであり、失敗の要因にもなりうるのです。

それゆえ、そのような事件が現れるとき、事件を任された人は、その事件より大きな決意と強力な内容が結集した力の核心体として立ち向かうべきです。そうして、難しい環境とぶつからなくては、その事件を解決できないのです。ですから、そのような環境に処して決意すべき人の立場は、極めて深刻であらざるをえないのです。こうして、そのような問題を克復するためには、目的を果たして、より強い信念を持つべきです。外的に近づく試練の条件を凌駕できる、内的な衝動をどのように発現させるかということが、その問題を解決する重要な鍵であらざるをえません。

人間たちは、人生の路程で、このような問題にぶつかる度に、それを克服しようとしますが、いつも失敗してしまいます。これが私たち人間生活の常例だったのです。では、これをご存じの神様は、私たちに何を要求されるのか? 再び決意と誓いをして進むのを願われるのです。私たちにもこれから必ず試練の峠が近づいてくるでしょうから、私たちは、その試練の峠に備えるために、再び決意すべきでしょう。外的な環境にぶつかって勝利し、一つの偉大な目標を達成するためには、近づいてくる試練より、強い力と刺激を導入すべきなのです。これが何より重要な問題です。これは神様だけが心配される問題ではなく、私たち自身も解決しなければならない重要な問題なのです。

このような立場でぶつかるようになるとき、人々はより強い力を必要とします。より強い刺激的な要因を必要とするため、第三の力を要求するようになります。偉大な人物なら人物であるほど、第三の力を必要とすることが不可避なのです。(三一・一五〇)

3 偉大なことは知らずのうちになす

先生は宣伝を嫌う人です。今までどこへ行っても、自分がしたことを誇る人ではありません。どのようにしてでも隠そうとするのです。偉業というものは表だってするものではありません。人に知られず、三分の二をなしておき、残りの三分の一が終わるときに偉業としてなすようにするのです。

それゆえ、歴史に偉大なことが現れるまで、・どんな思想でもどんなことでも同じです・すでにその背後の三分の二が、人知れずなされて出てくるのです。それが現れ、大衆に知られるときには、そのなしておいた実績、その基盤が公認されうる事実として現れるのです。(一四一・一二一)