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二 タイミング

1 時がある

時は来ます。時を待つ私たちも忙しいですが、時を訪ねて来られる神様は、もっと忙しいということを知るべきでしょう。(一一・二九)

人というのは、時があるのです。時を過って逃せば、歴史に恨みを残しうる、このような起源が、自分も知らない内に過ぎ去っていくという事実を知るべきでしょう。(七八・九四)

この地上のある人が、いくら持てる知識が多く、手腕に長け、すべての仕事を自分の意のままにできる、背後の条件を完備しているとしても、時を合わせられず、環境を持てなければ、志を成し遂げることはできません。(九・二五四)

それゆえ、俗に、いくら英雄であっても、時代にうまく合って生まれなければ、英雄として成功できない、というのです。そのように、時というものは、非常に重要なのです。時をうまく合わせられなければ、すべてが無駄になるのです。(五八・二三八)

時の貴さを知るべきです。春に種をまくべきなのに、秋にまくなら、冬の間苦痛を受けなければならないのです。(一八・一八五)

2 時と召命

人はだれに限らず、何かに選ばれるようになれば、その選ばれた位置で、真の勝利者になろうとし、もっと輝ける価値を追求しようとします。これが人の欲望です。しかしながら、この欲望が私たちの望みを刺激しうるとしても、これを実践するということは、それほど易しいことではありません。人は、努力さえすればだれでも成功するものと思っていますが、成功するということは、それほど易しいことではありません。

神様のみ旨の前において、召命を受けるという事実も難しいことですが。召命を受けて、十分に果たすということは、もっと難しいということを、私たちは知るべきです。

私たち人間は、一日を始める朝が来れば、この朝を皆同じく迎えます。昼が来れば、この昼も皆同じく迎え、夜なら夜も皆同じく迎えます。しかしながら、個々人の心霊を中心として見れば、そうではないのです。一日を迎えるにおいて、時間上では朝方を迎える人が、心霊上では昼を迎えるとか、昼を迎える人が、心霊上では夕方を迎えるように、食い違う人がいるのです。

言い換えれば、み旨に従う際に、すべてが平坦なものではなく、反対の立場に立ってついていく人がいるのです。このような人たちは、どんなことでも自分の願う通りになりません。み旨の道を歩んでも、必ず相反する役事が起こるのです。

そのような人は、どのような人かといえば、自分がもし秋なら秋、冬なら冬のようなときに出発したのに、その出発したときがいつなのか、確実に知らない人たちです。分からないのです。冬が過ぎて、立春がやって来るのに、この立春がいつ頃自分の生活圏内に訪ね来るのかを知ることがとても難しいのです。このように、今日、私たち堕落した人間たちは、そのような時を合わせられないので、しばしば食い違ってしまうのです。それゆえ、いちばん重要なことは何かというと、その時を私たちがどのようにとらえて、合わせていくのかということです。

このようなことを、信仰生活で悟るようになるとき、皆さんが注意すべきことは、その時をこのようにうまく調節して、合わせるかという問題です。これは、極めて重要な問題であるのです。これを合わせ損なうと、一日が食い違い、一年が食い違い、十年、あるいは数十年が食い違い、やることすべてに成果が現れず、相反する結果ばかり現れる生涯の路程を経ていくしかないのです。このような問題を考えてみるとき、み旨に従っていく私たちは、このような時を合わせていくためには、更に深い信仰生活、言い換えれば、深い祈祷生活が必要だということを知るべきです。(四〇・六六)

3 歴史の中でのタイミング

私たちが「時」ということを考えてみるとき、「時」には、天の運勢の時、個人の運勢の時、国の運勢の時など、色々考えられます。ところで、その「時」というのは、個人なら個人、家庭なら家庭、民族なら民族、国家なら国家、世界なら世界に予告をして訪れるのではありません。その時は、いつも訪れますが、続けて出ていくため、すなわち、きのうの続きが今日であり、今日の続きが明日であるため、私たちは、その時の確実な分岐点を認識し難いのです。

その時が、朝になるのか、昼になるのか、夕方になるのか、あるいは、夜になるのか、知り難いのです。一時点を過ぎるその時に、自分自ら相対的基準と生活的基盤を合わせるということは、極めて難しいことであるのです。

今まで経てきた歴史過程には、摂理の時がたくさんありました。個人のための時、家庭のための時、民族のための時、国家のための時など、一つの民族や国家を中心として、そのような時もありましたが、数多くの国家の前後左右を中心として見るときも、そのような時がたくさんありました。しかし、民族なら民族、国家なら国家が、その背後や前後関係において、過ぎていく必要適切な時に合わせて、果たしてその時がその民族が迎えられる時であり、その時の時点が、今日天の運勢が訪ね来る時であることを知って、その時を迎えたことがあったかというと、なかったのです。

予言者たちは、大部分ある一時について預言をします。そして、預言したその時は、必ず来るのです。しかし、その来ることの中心は、何ヶ月、何日間ではなく、一日のある瞬間、まさに一時の焦点を中心として過ぎていくのです。それゆえ、そのような分水嶺のような一時点を越えるのに、そこに正確に歩調を合わせるということは、非常に難しいことです。

それゆえ、今まで予言者たちが預言したことは、大部分なされましたが、そこに対して直接的な時代に、その時を知って、そこに備えて、相対的な立場で迎えてなされた事実は実に少ないということを、私たちは知るべきでしょう。その時を過ごしてしまって初めて「ああ、その時春が来たのだなあ。わが国に良い運勢が来たなあ。だれかが預言したその時が過ぎ去ったなあ」と言いながら、過ぎ去った時を回想するのです。このように、預言したその時を過ごしてしまって、その時をまた回想するのが、いつも私たち人間が生活してきた方式であり、今までつづってきた人類歴史だったのです。

このような観点で見れば、皆さん自身の一生においても、重要な時があります。一生において、必ずなくてはならない重要な時点が、ある一時を中心としてやって来るのです。ある一日を中心として、その時が必ずやって来て、峠を越えていくでしょう。(四〇・一四二)

人類歴史の時代において、イエスの受難の道に同参することのできる、たった数時間、たった数秒という時間は、二つとなく貴いものであり、神様を迎えることのできる、神様の公認を受けることのできる貴重な時間であるにもかかわらず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがこの時を逃すことによって、千秋の恨みを残してしまったのです。これは一個人の恨みではなく、万民の恨みに連結されて、神様がこの地の上に与えようとされた、全体の福をひっくり返しうる最低の境遇になったという事実を考えるとき、そのとき代表的な立場に置かれていた使徒たちの責任が、どれほど重大だったかを皆さんは知るべきです。(四〇・一五四)

4 時を迎える方法

一日を見ると、一日は朝と、昼と、夕方と、夜に分かれています。これは同じように見えますが、刻一刻違って移っていくのです。朝から昼までのその中間過程では、朝なのか、昼なのか、分からないときがあるのです。また、昼から夕方にさしかかるときも、そのときが昼なのか、夕方なのか、見分けのつかない中間のときがあるのです。また、夜もそうなのです。分かれる岐路があるのです。

その変わっていくときというものは、私たちが、まかり間違えば分からないのです。そうではないですか? いつ変わっているのか、分からないのです。春夏秋冬を考えてみても、春から夏に変わる日々が、チクタクという瞬間を通してそれが変わっていくのに「ああ、もう春が過ぎて夏だ」というのが分からないのです。それは、だれもが分かりやすい問題なのに、だれもが分かりにくいのです。また、夏から秋、秋から冬に変わっていくのも、私たちは分からないのです。

それと同じように、私たち人の一生を考えてみても、人の一生は少年時代から青年時代、壮年時代、老年時代を経るのです。ところで、これが越えていくときは、少年時代が終わって青年時代に越えていくのに、これをだれかが記憶して「おい、もう少年時代が終わって、青年時代に入るぞ」と言う人はいません。皆さんが競争のトラックで、スタートラインに立って走るように、そのような深刻な場でそれを感じてみた人は、一人もいないのです。

私たちの一生も、そのように越えていく時に合わせにくいのです。その時というものを正確に合わせて、「それがこの時間だ」と言い「よーい、ドン」という瞬間をもって、「私はこの時から、少年時代から新しい青年時代を迎える」と言い、喜んで新しい時代を迎える人はまれなのです。(五八・二三九)

ところで、日々を送りながら、ただその日もその日であり、今年も昨年と同じであり、摂理の時が発展するというけれど、そこでそこだと満足する人は、落ち葉になるのです。このような人は、生命の因縁を持てないために、秋になる前に落ちやすい落ち葉のようになりうるということを、皆さんは知るべきです。

それゆえ、私たちは、時に対してもっと考えるべきです。朝ならご飯を食べる時があります。ご飯を食べる時間だといっても、ご飯を食べ始めた時、ご飯を食べている真っ最中の時、ご飯を食べるのが終わる時があります。そのような時を、毎日毎日持つというのは、大変なのです。このように、天の時も私たちの生活過程を通して過ぎていくのに、私たちはそれをいつも見逃しているのです。

それゆえ、精誠を尽くすにおいては、むやみに捧げてはいけないのです。その時がどの時であるかを知って、その時に合わせて、目標を定めておいて捧げるべきなのです。そのようにして、世界のどんな人よりももっと捧げるべきです。地球上に数十億の人類が住んでいますが、その時、その瞬間、その焦点を中心として、だれよりも精誠を尽くさなければなりません。そのように、すべてを集中して精誠を尽くすことによって、その精誠の度数が数十億の人類の前に一番になるとき、神様は彼とともに関係を結び越えていかざるをえないのです。これが神様の摂理路程であることを、皆さんは知るべきです。

今日、統一教会の教会員の中に、統一教会に通うことにして、統一教会自体内で内的にひっくり返して、神様が見つめ、世界が見つめ、霊界が総動員して見つめるその時に、真に自分自身の歩調を合わせられるようにしてくれと、精誠を尽くし、また、「神様、今までこの時を願ってこられた、あなたのそのみ旨を、私たちの教団とともに、今日この地の上に、なしてくださいませ」と言い、神様の前に訴える人がいるならば、その人は福を受けることになるでしょう。その時の摂理圏内に参加することができる、特別な恵沢を受けることになるでしょう。

何も持たない人であっても、正確にその時を中心として、自ら準備して、自ら精誠を尽くすなら、その時の使命を背負い、責任を果たす、その中心存在とともに相対的な立場に立つようになるために、他の人たちは知らなくても、神様は認められるのです。そのようなことを一次、二次、三次と回数を重ねる人がいるなら、その人はその時の恵沢を受けるので、神様がその一代の基盤として、認めてくださるということを皆さんは知るべきでしょう。

私たち統一教会の教会員たちは、福の綱というか、天の運勢の綱というか、そういう綱を持っているので、この綱を中心存在と自分が、互いに引っ張り合い、この綱がたるまず、ピンと張る位置に立つならば、その位置がどれほど素晴らしい場所であるかということを考えるべきです。

それゆえ、統一教会の教会員なら、統一教会の行く道とともに、自分の生命を懸けて忠誠を尽くしながら、一日一日、時間時間を、その時の拍子と度数に合わせるために、精誠を尽くすべきです。そうしてこそ、その人は、統一教会の運勢とともに発展するのです。

統一教会に従う人たちも、行く途中で疲れて倒れるかもしれませんが、その中でも世界の運勢とともに関係を結び、その時に合わせるために、精誠を尽くした人がいるならば、他の人はたった一日でみんな倒れてしまっても、その人だけは残るでしょう。

摂理の途上においても時があるのです。ですから、その時を知ろうというのです。その時を知って、精誠を尽くそうというのです。精誠を尽くすには、時に合わせて精誠を尽くすべきです。むやみに精誠を尽くしてはいけません。精誠を尽くすときは、その時が、どの時であるかを知って、その時に合わせて、すべての精誠を尽くして、その時間を通じて神様と因縁を結ぶべきです。

このような問題を考えるとき、今日私たちがこのような時に対する的確度を知って、その時に合わせて神様の前に相対的な立場に立ったということは、極めて貴い事実であるということを考えるべきです。(四〇・一五二)

時を逃さず、時を失わず、仕事を奪われるな、ということです。それを失わない方法は、今先生の言う二通りしかないのです。疎ましい人にならず、人を愛する人になり…。その二つだけすれば、それを絶対失わないのです。それだけパスすればいいのです。それしかないのです。私が調べてみたら、それしかないのです。(九四・一四三0