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五 成和青年の姿勢

1 内的自我の確立

皆さんにいちばん重要なことは何かというと、神様と父母様と自分が、いつも一致すべきだということです。もし、離脱するならば、度々事故が起こるのです。ここから離脱したときには、み旨のためにするといったとしても、そのことによって、自分でも知らずに逆賊になるのです。初めから逆賊になろうと考えた人はいないでしょう。よくやるといったのが、結局はそのようになるのです。

それゆえ、ここにいる皆さんは、三者の一致点を探し求めるべきです。責任を完遂するにおいては、これがいちばん重要で起点であるという事実を皆さんは知るべきです。神様と父母様と内的に一致できる基盤は心情です。(二四・一三二)

内的な教会生活において、神様から公認を受けうる立場に立てない人は、外的な社会生活において、神様に代わって生活することはできません。(二二・三六)

皆さんは、自分の進んでいる方向が違ったとしても、その目的基準に対する徹頭徹尾の思想だけは持っているべきです。そのような心さえ持っているなら、だれも侵犯できないのです。(三四・二四)

統一教会の先生が指導する方法は何か? 神様のために今まで何をしてきたか? それはすなわち「歴史の主流に接しろ」ということです。(二一・一〇九)

2 決心した以上押し通せ

原理を知る人は一生を生きる中で、二一歳のときは三×七=二一であるため、「この一年だけは、三六五日私が計画した通り、間違いなくやる」と決心します。そうして、正月一日「天地神明よ! このなにがしという男を見てくださいませ。二一歳を迎えたこの年の三六五日だけは、私が計画した通りに致します」と宣誓し、誓って出発したとしましょう。それで、その日の朝には、深刻に目をむき、へそに力を入れて大騒ぎしますが、一日を暮らしてみると、そのような気分はどこかへ行ってしまうのです。失ってしまうのが当たり前なのです。目をむいて下っ腹に力を入れて決心したら、それ以上の力を入れて目をむく深刻な立場に立たなければ、決心したことを成せないのが、私たちの生活の周辺の現象です。そうですか、違いますか?(そうです)。決心した以上押し通すべきです。

発動機が回るのにおいて、もっと早く、もっと力強く回すには、だんだんだんだん力が強くならなければならないのであって、少なくなってはいけません。そうでしょう? それでこそ、発動機が正常に回るのです。これと同じ道理です。そうではないですか?

ですから、毎日、朝や昼や夜に、あるいは、一週間、二週間、三週間、四週間、あるいは、ひと月、ふた月、半年、一年、三六〇日を進むほど、出発したときに固く決心したそれ以上の気迫を持たなければなりません。その気迫が弱くなって、目的を達成できますか? 最初より少しでも弱くなって、その目的を達成できますか、できませんか?(できません)。できないのです。三六五日、このような決意をして、最初の日に決意したそれ以上の決意をプラスさせて、それ以上の迫力を加える自分になってこそ、三六五日を過ごした後「やあ! 二一歳になる今年は、本当に素晴らしく幸福な、記念すべき年だった」そう言えるのであって、決心を少しでも低くする場合には、どのようになりますか? 上がりますか、落ちますか?(落ちます)。落ちるようになっているのです。一つの目はこうなって、もう一つの目はこうなって落ちます。

一年間、暮らすにおいては、皆さんが目をむいて誓っても、それに合わせるか、合わせられないか分からないのが、堕落した人間の人生なのです。そうではないですか、そうですか? そうであるでしょうか、違うでしょうか?(そうです)。(五七・一四一)

3 外的姿勢

私たち青年男女は、今日の現実の教会に対して、教派主義に対して、まず半期を翻して立ち上がるべきであり、平信徒の団結を叫ぶべきです。時代の思潮は、これを要求しているということを皆さんは知るべきです。昔には、ある主権者や帝王、あるいは君主たちが、神様に代わって成り済ましていました。そうだといって、その人たちは、神様ですか? その人たちだけ神様に成り済ますべきですか? 違います。そうではありません。万民が神様の血肉を受けた息子・娘である故に、だれもが天の息子・娘であるのです。(六・三一一)

今日、この民族を抱えようという青年がいますか? 民族が進んでいく道を開拓し、ある目的地に接近させてやろうとする使命を持ち、それに対する責任を感じる人がいますか? そのような人がいるとすれば、彼はこの民族のあえぐ実情を見て、イエス様が天に対して訴えながら流された涙が、その民族を助け、今日まで、歴史的因縁をつないできたという事実を知り、イエス様のようにこの民族のために、天に対して訴えるべきでしょう。

今日、歴史的な思潮もそうですが、これからの民族の展望もそうです。天理的な一時を望んでいる人類であることを否定できないからには、そのような過程であえいでいる私たちであるということを知るべきでしょう。それゆえ、自分が進む人生行路で、自信を持つことができなければなりません。これがなくてはならないのです。(七・三二)

さあ、統一教会の青年たちよ、統一教会は何をするのですか?「神様と人類が一つになってみよう」と言う連中なのです。その連中に間違いないのです。事実でしょう?「神様、私たちの所に来てくださいませ」と言うのですか、「私たちが神様の前に行きます」と言いますか? どちらですか?(私たちが神様の前に行くといいます)。そこに一般の既成教会と統一教会が違う点があるということを知るべきなのです。(八七・一三)

この国の悲惨な姿を見て、山に登ったり、岩をたたきながら「岩よ、お前がこの民族の悲惨な姿を見るのを願ったのか」と、慟哭する青年がいるか? いないなら、この国は決して悲惨の中から抜け出すことはできないでしょう。(一四・一五五)

統一教会の青年は、何でもするという心がなければなりません。(一一・一〇)

皆さんが優れている、劣っているとか、ある事実をよく知っている、知らないが問題ではありません。自分がどこから習い、どこで知って、どこで動じ静じ熱意を尽くすか、というのが問題です。これがこれから、皆さんの全体を左右するのです。(二五・九五)

年を多く取った人より、若者、若い青年たち、情熱と気迫にあふれる若者たちが必要です。(一四・一七〇)

何でも大きいことをするためには、基礎がしっかりしていなければなりません。今日、若者たちが取るべき態度は、どんなものか? 皆さんは機関車になるのか、客車になるのか? もちろん、機関車になるべきです。ところで、私たちは今、客車のいちばん後ろにくっついて、車輪を逆に回しながら引っ張られている実情です。

力がなければ、空いた車でも回して、この峠を越えなければなりません。私たちは、機関車を引いていかなければならないのです。

私たちは力のある統一の群れになるべきです。動かなければならないという衝動が、百パーセント体にしみ込んでいなければなりません。どこまでも、力にぶつかろうとする動的な衝動が皆さんに必要なのです。

何よりも、若者たちが知るべきことは、自分がどこからどこへ向かっているかという問題です。今日を生きていく自分は、どのような姿勢が必要なのかを知るべきです。(一四・一〇四)

統一教会の若者として、完全な生活方法は何か? 一線に立ち、激しい嵐が吹きつけても、それを貫いていくのであり、また、すべての十字架の途上においても、歯を食いしばって前進するのです。このように、神様が願う道を行くことが正道なのです。そのような境遇で、悲しみを感じたことのない人は、説明では通じません。そのような境遇で、涙を流しながら「お父様!」と言うとき、歴史的な十字架を背負ったお父様の苦労が分かるようになり、また、お父様の前に真の孝行者になれなかったことが、神様の恨であるということが分かるようになります。神様が「よし、このような境遇で、真の孝行者になりうる息子・娘に会うのが私の願いだったが、おお! なにがしよ、ありがたい」と言うとき、そこから初めて孝行息子・娘、忠臣、烈女の位置が決定されるのです。(一五・三一九)