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一 人格者の道
1 「人格者」とは
人格者はどんな人か? ご飯だけよく食べて、ご飯のために生きる人が人格者ですか、芸術や文学や詩に造詣があり、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対してたたえることのできる、このような人が人格者ですか? どちらが価値的な人間に近いかというならば、ご飯を食べる人は物に近いのです、物。何の物? 動物に近いのです、動物に。動物に近く、その次に自然を楽しみ、抒情の心情が豊富な人々は何かというと、神仙に、神仙に近いのです。人の中には二種類があって、一つは動物的な人間で、一つは理想的な人間です。(八五・一四三)
どんな人を人格者というか? ある社会制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を人格者といいます。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいたとすると、彼はその町の内外に住んでいる人々に、生活的に精神的に中心的な作用ができる人です。それでこそ彼は、尊敬の対象になりうるのです。
それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち、一人の人格者を中心に国家が形成されています。その人格者を中心に、国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されるのです。このように考えるとき、範囲が広い世界にもやはり中心的な人格者がいるべきなのです。
人格者といっても、外的に、すなわち、肉体的に見れば普通の人と別に差がありません。しかしながら、内的に見れば、思想的な面であるとか、精神的な面が普通の人とは違います。
このように見るとき、人格者を決定しうるのは、人の外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。それゆえ、人間の精神的分野を中心として人格を論じるべきなのです。
この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接しうる能動性を持っています。このような点から見るときに、人が持っている欲望は体から生じるのではなく、心から生じるということが分かります。心は絶えず作用しながら、無限な欲望をかきたてています。
また、私たちの人格を中心にして見ても、人格というものは、ある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらに進んで、過去、現在、未来までも越えうる、絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるという事実が分かります。このように、絶対的な位置まで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているという事実が分かります。(二五・一二五)
ある人を人格者であるというときには、その人の外貌や学閥、経歴または地位を見ていうのではありません。どれほど、原理的な立場で生きているかということを見るのです。それゆえ、何か外的に華麗で多様なものを強調するのではありません。心が天に仕えるにおいて変わらない人、そのような心を持って、神様のみ旨に合わせて生活していける人が人格者なのです。(一九・二八五)
人格には、縦的な人格、良心的な人格、その次には横的な人格、肉体的な人格があります。この人格を連合して、縦的な人格は、水平線に対して垂直に立つべきであり、また、肉的な人格は、垂直に対して九〇度の横的な人格に立つべきです。
それでこそ、すべての角度がいつも九〇度になり、球形になるのです。そうなって、その中心ポイントさえカーンと打てば、そこに関係する千万の線を引いても、その中心を通して線を引くために、ここに作用する力は、球全体に作用するのです。そこだけカーンと打てば、その全体が響くのです。全体が分かるのです。(一七六・一三八)
このように見るときに、人に人格にも骨がありますか、ありませんか? 見ましたか、人格の骨?「人格」というと人の形態、備えた人の形をいうのに、その中は見える人、私のように見える人がいますが、私をこのように見えるようにしうる根本を見るなら、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その形成体によって、見える形体がこのうに存在するようになるということを知るべきです。(一七七・三一五)
2 人格の中心・心情
今私たちに最も必要なことは何か? 愛の後光です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その神様の愛が、自分にいかりを下ろさなければなりません。
人格の中心を何に置くのか? 真理に置くのではなく、心情に置くのです。その位置はどんな位置か? その位置は、一生の間春をたたえる位置です。(三三・六八)
みなさんは、死んでも神様の愛を追求していくべきです。皆さんが人生の道を行くにおいて、今まで追求してきた神様の人格の中心は何か? 真理ではありません。その中心は心情です。その中心の極を超越できる位置に入るべきです。その位置に入れば、自分の死の苦痛が考えられないのです。死が訪れる瞬間といっても、その死の苦痛を忘れ、父の愛の懐に抱かれて眠ることができるのです。そうすることのできる人になるべきです。そのように最後を終える人がいるなら、彼はこの地に生まれては去った人として、だれよりも最高の贈り物を抱いていく人です。(三三・八四)
人格とは何か? 人格は、言葉だけでなく、心情と関連したものが人格の表象であり、これが永遠の基準になるのです。それで、今日私たちは、心情の神様を主張し始めたのです。これは、最後の神様の人格の基準です。神様は愛であるというために、愛の本質である心情の起源を中心として、そこからわき出る人格を中心として…。その人格の下に、天理の大道を明らかにしていこうという主張をするにおいては、今日統一教会の文なにがしに、だれもついていけないのです。(八四・一二三)
悟りの世界で人格完成という標準は、どこから出てくるか? 愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として、人格完成ができるのです。(三三・七九)
3 人格完成の方法
(先生が、心と体が一つになる人格形成をすべきだといわれたんですが、そうするには、何がいちばん問題になるのか、一度おっしゃってください)。死ぬんだ! 死になさい! 死んだままでいなさい。足の裏でしきりに踏まれなさい。高いところに上がっては、心と体が一つになる道はありません、私の知るところでは。天下に高い心を持って、上がるようになれば、一つになる道がありません。踏まれるべきです。先生も高くなるかと、神様が四〇年間足で踏んでしまったのです。何の話か分かりますか?(よく分かります)。三千里半島を渡り歩いたあの昔の何か、金サッカッ・李朝末期の放浪詩人。掛け言葉を使い、時の権力を風刺した。・のように悪口を言われ、踏まれて、冷遇されながら、通わなければならないのです。そうでありながらも、それをすべて消化でき、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見すべきです。
今、普通世の中で考えるとき、すべて心と体が一つになるには、良い位置で楽によく食べ、豊かに暮らせばいいというのです。そういう者たちは、地獄に行くべきです。地獄に行かなければなりません。それゆえ、イエス様は死のうとする者は生きるといいました。反対なのです、これが。逆説的な論理を通して、生きようとする者は死ぬというのです。お前の家族が怨讐だといいました。だれよりも、私をもっと愛せといいました。それは、全部いちばん反対の位置に入れということです。(一四四・二五七)
4 人格者の生活様相
今日、多くの人々は、絶対的な中心を持っていないために、心が朝夕で変わります。そういう人々を人格者といえません。人格者とは、一生を通じて約束したことを守る人であり、義の水準が高い人です。何かが決定した後には、こうだああだと弁明があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという、人格者になるべきです。(二三・一〇〇)
人格者は、だれかと約束したことがあれば、それを履行し実践します。これは自分が主張して約束したことであるために、自分はこれに従わないという人がいれば、彼は人格者ではありません。法は公的な基準を中心として、約束したものです。それゆえ、その法の約束圏内にいるすべての人々は、その法を守らなければなりません。約束した人がその法を守れないときには、共同的な法度により、制裁を受けるべきなのです。これが法を遵守すべき人々の責任です。
だれが主張したにせよ、立てられた約束は実践しなければなりません。実践しなければ、落伍者になります。約束というものは、約束した基準、すなわち、線なら線、点なら点を中心として、すべてが一致しなければなりません。(三一・一三)
宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、その神様の愛が、堕落以後今日まで生きてきた人間個々人に注がれ折衷したら、永遠な一日を中心として、上がっても愛であり、落ちても愛であり、転んでも愛であるといえる境地があるのではないでしょうか?
それなら、その境地では、人格の貴さがどこにあるのか? その人は、言葉がうまいから良かったり、その人の目が鳩の目のようで良いとかいうのを超越するのです。どこを見ても、誤りがないのです。彼と関係のあるすべては、香水の香りがするのです。そうであるべきではありませんか? 神様が創造されたものは、全部神様の形状から見るとき、神様の分身であり、神様と因縁のないものはないという、そのような心情を持って見れば、みんな友達なのです。(三三・八九)