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1 知識と生命
知識と生命の価値を考えるとき、これら互いにが対等でありえますか? 皆さんは、学士、博士になるため、生命を犠牲にしますか? 生命を学士、博士と替えますか、替えませんか?(替えません)。ならば、農村に住む人でも生命の価値を知っている人と、いくら、学士、博士でも、生命の価値を知らずに生きる人を比べるとき、どちらが価値のある人ですか?(生命の価値を知っている人です)。それゆえ、生命と知識は比較にならないのです。(四一・一七六)
聖人は、何をもってタッチ(touch)したのか? 聖人がタッチしたその内容は、知識ではありません。より価値のある生命、より甲斐のある生命を中心として、その生命が国家的でなく、世界的な宇宙を主管できる超環境的な生命の価値を描きながら、それを実践し、その周囲環境の中でその生命が覆され、世界的な国家を望みながら死んでいったとすれば、彼は聖人であるのです。
それゆえ、ソクラテスは聖人の側に入れません。今日の思潮は何が動かすのか? 哲学が動かします。しかし、哲学は生命と関係があるのではありません。皆さんはそれを知るべきです。哲学は、生命を左右できる根元的な立場にはなれないのです。生命の対象的な立場に立つことのできる知識の根源にはなりますが、生命の内容自体を決定できないのです。それゆえ、哲学は生命を救えないという結論が出てくるのです。
聖人たちは、哲学者ではありません。聖人たちを分析してみるとき、彼らは何をもって生きたのか? 何らかの戦法をもって生きたのではありません。もちろん、知識を教えてくれるべきではあったでしょう。人生の道理の一面を教えてくれはしましたが、それは何を中心として教えてくれたのか? 世の中を占領するための戦略的なことを教えてくれたのか? 彼らが教えた内容は違います。全部違うのです。
知識は知れば知るほど占領していくのです。今日の西洋哲学というものは、占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくのです。多く知れば知るほど、自分を越えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心として? 世界を中心に、自分を中心に?
世界のための道に従って進むとはいいますが、だれを中心とするかといえば、どこまでも自分自体を中心とするのです。自分が中心だというのです。哲学は人生の生命問題を根本的に解決できないため、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなれないのです。聖人たちはそのようなことを知っていたため、何を追求したか? 知識を探求するにはするが、平面的なものだけではなく、一般的なことだけではなく、両面的な面で探求しようとしました。それゆえ、聖人の道理は必ず何が中心となっているか? 自分が中心になっていません。分かりますか? ところで、哲学は、何が中心になっているか?「学」ではありますが、その「学」を主張する人を中心としているのです。これが問題です。聖人は主張はしますが、主張するその人が中心ではないのです。これが違います。
哲学というのは、主張する人がいつでも問題になるのです。マルクス主義であれば、マルクス主義を主張した人が、主導的な役割をするのです。その思想圏内に全部融合させるために、世界に発展させて出てくるのです。その中心がだれかといえば、人間であるのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるにおいて、内在的な作用をするのが今日の哲学思潮であるのです。(四〇・三三〇)
人間は何より貴い生命を宿しています。しかし、この生命を動かし、この生命に衝撃を与える力の対象体として生きない限り、私たちはその力の相対的世界であるこの世界で、安息できません。それで人間は、自分の生命以上の絶対的な生命体と因縁を結ぼうとするのです。これは必然的なことなのです。このみ旨は、人間のものではないでしょうし、このみ旨の責任者も、人間ではないでしょう。それでこのようなみ旨を立てて、摂理してこられた方に絶対者であるとか、神様であるとかいう名詞を付与せざるをえないのです。
歴史的な終末時期であるこの時を生きていく人は、知識が多ければ多いほど、悩みが大きいことを皆さんは知っています。その悩みが自身の生命力を支配し、生命が安息できる福地を開拓できないようにすることもまた、だれもがよく知っています。このような時において、必然的に要求されることは、絶対者による生命の安息所です。これをだれそれなく要求しているものであり、民族を越えて、東西の文化を越え、すべての人が必要としていることを私たちは知るべきです。
このような見地から、私たちは、絶対者と因縁を結べるその何かを慕っているという事実が分かります。多くの知識を持ち、人格修養をした人であるほど、意識を通して認識する感覚が、鋭敏であれば鋭敏な者であるほど、自分が知っている専門分野だけでは、生命の安息所が開拓できないことをよく知っています。(九・三〇六)
皆さんは、何の大学に行き、博士になって、何になって、と騒ぎますが、鉢巻をして、ご飯もよく食べられず、遊ぶこともできずにですね、休みもせず、夜を明かしながら勉強して博士の学位を取ったのです。そして、ノーベル賞受賞者になったといって、世の中で立派な人だといいますが、彼自身をよく見ると、悲惨なことが多いのです。同じなのです、同じ。いくらノーベル賞受賞者になり、知識があるとしても、それは狭い専門分野です、狭い専門分野。この広い世の中で、小さな穴を開けて、その分野について知って、この囲いの中でこうしているのです。世の中を見て、全体を見るとき、自分は極めて小さなものです。何かを知って誇りますが、極めて小さいことを知ったのです。
さあ、それを考えるとき、知るということ、知識が人間に幸福をもたらし、安逸をもたらすか? そうではないのです、知識は。勉強すれば、勉強するほど、分からないことがもっと多いということが分かるのです。もっと多くのことを知るようになるのです。
このようにして、学校に入って、有名な教授になってみなさい。毎日のようにチョークでもつかんで、何かを書いて、何かを任されて…。こうして一生を過ごすと考えてみなさい。チョークの粉を吸いながら、大声を上げても、その分野で声を大にするのであって、世界に何の影響を及ぼすとか、いっぺんに世界がどうにかなるとか、そのようなことは一つも分からないのです。一つのみ旨だとか何とか、考える余地がないのです。知らない人より、もっと知らないのです。より深く入っているから…。
さあ、そのようなことを考えてみるとき、知識があるといっても、一生の間ただ本の虫として…。自分に対して自信を持つのでなく、ただいいもの、だれかがその分野で一言言えば、それをかき集めてまた比較、研究し…。それはたまらないのです。ですから、自分が主張したのが希薄なのです。自信がないのです。また、有名な学者になれたら、それが何ですか? そこに自分の生命を投入して、自分の全体を投入するには、あまりにも惜しいのです。(九八・八四)
私たちが、あの人は優れている、というとき、知識をもって優れたといいますか? 性格が優れているべきでしょう。本当に優れており、良い人と名前がつくためには、その人の本性と生命の形が天性的に優れていなければならないのです。知識などあってもなくても、心が優れているべきです。(三九・三一五)
皆さんが、金持ちになって、偉大な学者になろうとするのは、そのセンターに行って全部尊敬されるためであって、あの遠い国へ行って尊敬されるためではないではないですか?(一二八・一九八)
2 知識と心情
知識が多くて何がどうだという、そのようなことを先生は考えません。心情が問題です。知識で主管するようになっていますか? 権力で、権威意識をもって「私が長である」と言ってはなりません。心情をもって主管するのです。心情はこの宇宙の中心であるがため、自分が心情的因縁を結べば、先生と一つになろうというようになれば、先生と同参することのできる権限が生まれ、同意圏が立つのです。それが九〇度に立てばこそ効果が生まれるため、そこから外れてはいけません。角度が合わなければ、いくらやっても無駄なのです。(一七一・二〇)
歴史は私たち人間をして、知識を通じ、外的な幸福の基礎を築くようにしたり、宗教と倫理と道徳を立てて、社会的秩序の基準を持つようにしたけれど、人間だけが意志疎通できる心情的秩序は立てられなかったのです。それを知るべきです。心情的な秩序は立てられなかったのです。神様がいるというからには、その神様は、何をすべきなのでしょうか? 外的環境は整ったので、人間の前に外的に許された祝福の基準は、復帰されたので、今世界的に心情的因縁を持った形態が現れなければなりません。それで、心情的因縁を中心とした世界を備えるために来られる方が再臨主である、ということを知るべきです。
そのため、今まで世界は知識革命をしてきたし、社会組織革命をしてきました。この上に良心の基準を越えた心情の革命まで起こそうとしています。心情革命を完結させようというならば、私たちが堕落によって失った神様と、堕落していない真の御父母に侍り、真の息子・娘になるべきです。神様、真の父母、真の息子・娘、この三者が失ってしまった一つの基準を中心として出会うことができてこそ、心情革命が完結するのです。そのようにできる時が、終わりの日なのです。皆さん、これをはっきりと知るべきです、はっきりと。(九・六〇)
3 神様は知識を勧告しなかった
堕落とは何でしょう? 神様との心情的因縁を裏切ったことです。神様が願われる良心の基準を完成できず裏切ったのが堕落なのです。神様の理念を立てられずに裏切ったのが堕落ということです。焦点は、神様の心情基準を失ってしまったことです。
それで、天は人間を探し求めてこられます。来られるときには「お前たちの体を愛せ。学問や知識を愛せ」とは言われませんでした。「神様の愛を求めて立ち上がれ」と言われました。これが今まで神様が悟りの道を立ててこられた基準です。(一〇・九八)
神様が立てられたイエス様が、み旨を成すことができずに行かれたその日から、すべての王、メシアの再臨を約束されました。そのような主人公が来られるには、何を持って来られるのか? 人間の望み、歴史の望み、時代の望み、すべての天宙の望みである、心情の福地を持って訪ねてこられるのです。それで、天は私たちに勧告されました。知識を持てと勧告されませんでした。権勢を振るえと勧告されませんでした。死んでも、生きても新婦の志操を持って身を整えろと勧告されました。(九・五六)
神様に必要なことは何か? 神様にはお金も必要でないし、その次に知識も必要ありません。神様に何の知識が必要ですか? 自分が神様の前に行って「私は知識が多く、博物学者です」と言うとき、神様は何と言われるでしょうか? 「立派であるな」と言われるでしょうか、「意地汚い」と言われるでしょうか? 誇れる内容は、何もないのです。神様は真理の王です。知識の王です。また、「私はある国で大統領をしてきました」と言えば「このやろう!」と言われるのです。神様の前に、自分の権力を中心として、大統領の権限を知ってくれといっても、それは神様がいつも持っているのです。神様に必要なのは何か? お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、必要なのは愛であるのです。(一八七・四四)
知識、知識がそうではないですか? 学説が全部変わっていけば、絶えずそこに飛びついていくではないですか? それに従っていくのです。一方向性です。回らないのです。知識、力、その次には,お金、経済…。経済というのは消耗するのです。経済というのは、お金というものは、必ず使うようになっているのです。お金がなぜ必要なのかといえば、私たちがそれを消耗させるためです。それを中心として、万物の代わりとなりうる消耗材料を必要とするのです。
消耗したものは、どこへ行くか? 消耗して、それが回るのではありません。それも一方向性です。回らないのです。しかし、これらの力の中で、回りうる一つの力は何か? 愛の力は回るのです。その愛は一人で回ることはできないのです。(一八〇・一四四)
4 専門家になるには
学問なら学問を中心として考えるとき、ある分野の権威ある地位に進むためには、その分野について、専門的な過程を履修しなければなりません。事業もやはり、その分野で専門的な過程を経なければ、大きな成功を収めることはできないのです。国家も同様に、一つの政策を遂行するためには、その分野の専門要員たちが知識を統合しなければなりません。そうしなければ、その国家の政策遂行は不可能であるということを、私たちは知っています。
このような観点から見るとき、神様が復帰摂理という問題を解くにおいても、ここに必ず神様が願われる専門家が必要であるということは、言うまでもないことです。私たち統一教会を中心として考えるときにも、私たちが行く道には、必ず専門家がいなければなりません。
では、私たちが専門家になるためには、まずどんな精神を持つべきか? 自分が目的とする分野に、全身全霊を傾けなければなりません。自分のすべての生命力を投入して、すべての精誠を注ぎ込むべきなのです。聖書にも「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛せよ」と言いました。すなわち、愛するにおいては、全身全霊を尽くして愛さなければなりません。心情が一致せずには、愛の専門家になれないということです。(二九・八〇)
以前にある大学に通う学生を通して、学者たちは自分の専攻分野の資料を収集するために回っていたのですが、世界的な資料、もう少し有益な資料がどこかにあるといえば、それを求めるために、自分の威信がどうなるか考えもせず、ありったけの力を尽くして、必死に走り回る、という話しを聞きました。自分の専門分野のためには、自分の持っている財産を全部はたいてでも、その資料を求めようとするのが、学者たちの心というものです。生命を懸けて自分の専門分野について研究する立場にある人であるほど、惜しいものはないのです。(一二・一九九)
専門家になるためには、その内容を深く掘り下げなければならないのです。そのようなことを正しく教えるためには、それが必要なのです。しなくてもいいのですが、習わなくてもいいのですが、深いところまで行こうとするには、それを訪ね入って知るべきです。それでこそ指導者になりうるのです。(六七・二三一)
世の中には、有名なバスケットボールの選手、サッカーの選手、フットボールの選手がいますが、その選手たちは、そのままそのようにその国のチャンピオンになるのですか? そのチャンピオンは、何かといえば、専門家です。最高の専門家なのです。では、専門家がただ座って「私は専門家になる」と言って、なりますか? 同じことを十回、百回、千回。万回…。その数をたくさんすればするほど専門家になるのです。(八一・一三五)
5 絶対価値を中心として収拾すべき
世の中の人たちの中には、専門家の人格、部分品の人格がたくさんあります。そうして、博士だといって自慢していたのが、この頃では厳しくなって大したことはありません。博士で世界の問題が解決できないのです。
それゆえ、先生は、絶対価値を中心として、アイカス(ICUS 国際科学統一会議)を指導する場があるではないですか? 博士たちを招いて回りながら指導するのです。ノーベル賞受賞者、ヨーロッパでどうの、アメリカでどうのという、優秀な者たちを引き連れて回る機関車が先生ではないですか? いくら声を大にしても、部分品工場の専門委員にしかなれません。専門委員だとか、マネージャーだとかいって…。
ですから、部分品工場でなく、組立工場に行くべきです。では、統一教会は、何をするところか? 部分品工場になって部分品を作る所ですか、組立工場になって完成品を作る所ですか?(完成品を作る所です)。完成品を作る所でしょう。それゆえ、統一教会の工程は、通過していくのがたやすいですか、難しいですか?(難しいです)。どれだけ複雑ですか? 統一教会は、やらないことがないでしょう?
アメリカ人たちが、私の悪口を言うとき、レバレンド・ムーンは産業経営者だとか、福音伝道師だとか、ビジネスマンだとか、宗教指導者だとか、科学者だとか、ああだこうだとありとあらゆることをみんないいます。このやろう! そうじゃありません。私が何の工場主か? 全体を組み立てて、完成品を作る工場主がレバレンド・ムーンです。気分が悪いでしょう?(気分がいいです)。
では、その原本はどこにありますか? 組み立てるその原本が、どこにありますか? 青写真というものです。原製作図がどこにありますか? それはレバレンド・ムーンによる原本か、神様による原本か? それが問題です。レバレンド・ムーンによる原本なら、それは偽物です。いくらうまくできていても、人間によるものは偽物です。しかし、神様によるものならば、本物でありうるのです。本物は、まだできていません。本物でありえます。
本物であるかないかは、食べてみれば分かります。食べてみれば、千年前の本心が口をパッと開けて「もっとくれ。どんどん入れてくれ」と言うのです。行くなといっても「私は食べたい」と言いながら、絶えず引かれていくのです。統一教会は、そのような威厳があります。これが問題です。一度味を知ったら、首が取れても、足が逃げていっても、首はそこに永遠についていようとします。そう、この老いぼれたち、来る度に私が毎回のように悪口を言っても、悪口を言われた跡がありません。たたいてあざになっても、痛いといわずに、いいといいます。いいといいます。だから、それはあやしいのです。何がそうさせるのですか? 手段方法で? 文先生は才能が多いから? 言葉がうまいから? 言葉がうまいのは、飴売りが私よりもっとうまいのです。それは何ですか? 一度味を見たら、舌がくっついて、はまりこんだらやめられないのです。(一七二・三五)
皆さん、思想戦に負けますか? 負けますか、負けませんか?(負けません)。すでに実験は済みました。全世界の学者の中で、これからは、レバレンド・ムーンのゴッディズムの時代であると提唱する学者たちが多くなるのです。今から、アカデミーは、統一思想から統一教会の原理を知らない人は、議長団から除去するようにしました。一九八八年まで、頂上に昇ったすべての学者世界に、私が今絶対価値を中心として論駁する、このような巡回要員の立場にはならないでしょう。私たちの要員たちを配置して、しんらつに批判するでしょう。「社会科学から自然科学、哲学、宗教分野で、全部しんらつに批判してたたき直せ」と言いました。今年からそのような指示をしました。今や私が手を着けるべき時なのです。それで、学界の巨星たちは、思想的な方向を正してやるべきです。分かりますか? 思想戦には負けてはならぬチャンピオン、先頭に立った人が先生だということを忘れてはなりません。分かりますか?(一三八・六〇)
見なさい。今までレバレンド・ムーンの言うことを聞いた人たちは、立派な…。ここにも博士のかけらたちが来ているでしょう。かけらといって申し訳ありませんが、かけらが何、物理学のかけらとか、哲学のかけらでしょう。かけらというのは、一部分をいうのです。何だ、優秀だからと、統一教会に来ては、出ていって「ははあ、文なにがしがあんなふうにしたら滅びるさ。まあ、獄中生活をして、統一教会がなくなるさ。あんなふうにして、だれがついていくか?」と言うのです。しかしながら、みんなついてこなくても、私はついていくのです。私はついていきます。そうして、結局見たら、この頃になって、私が彼らよりも栄えた位置に立っており、彼らは全部片隅に立っていたというのです。(一三二・二三三)
6 若者が知るべきこと
私たちを知らない人が、私たちに会えば「おまえはだれか?」と尋ねます。先生も皆さんに同じ言葉で尋ねたいです。神様も同じ質問をなさるでしょう。神様が喜ばれる答えは「私は青年です」と言うことです。個人においてもいちばんいい時は、青年の時です。(一一・一一七)
数多くの宗教は、何千年、あるいは何百年間現れては、この時代的な思潮の前に押されていく傾向を見せています。キリスト教も今まで、数千年間現れてきましたが、未来のひとときを賭けて、もう一度越えるべき運命に置かれています。ここにもし骨髄からにじみ出た、神様の競技コースがあるとすると、そのコースは歴史的なコースであり、時代的なコースであり、未来的なコースであるため、私たちはここに対する知識がなければなりません。それゆえ、このときにある新しい真理があるとするならば、その真理はこの時代的なものであってはなりません。皆さん、青年たちは、はっきりと知るべきです。時代性だけを身につけては絶対にいけません。何主義、何思想があったとしても、一時代のひとときに合うものなら、その主義と思想は過ぎ去ってしまうのです。連綿とした歴史の背景を持ち、この時代の思潮を通じ越えられる理念、新しい主義が必要なのです。(七・一三九)
今日、この時代は、どのような時代なのか? 善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に処している私たちは、どのようになるのか? 善悪が交差し、合流した後には、どのような世界になるのか? この世界が流れていけば、どのような世界がやって来るのか? 気がかりな問題です。今日、志を持った青年男女がいるとするならば、足を止めて、天があることを知るべきであり、地にある万物の願いを知るべきであり、その願いの爆発地が交差点に止まっているこの世界でなく、正に自分たちであることを悟べきです。(六・一一二)
若い人たちは善悪の基準を確実に知らなくてはいけません、これを確実に知るべきです。(七〇・七三)
若者たち、皆さんは善悪の岐路に立っているため、一歩でも間違えて行けば、それは千尋万尋の死の底に歩み入るのです。苦しくても一歩一歩踏みしめて上がるようになるときには、光る明日の願いの山の峰を越えて、希望の原野を臨むことのできる、勝利の王者になりうるのです。一歩に注意すべきなのです。一つの視線を注意すべきなのです。皆さんは、勉強するにおいて、一ページの本を読むときには、この一ページを自分が全部納得することによって、一つの単語をキャッチ(catch:つかむ)して、よく理解しておくことによって、これからの国の悲運の歴史をより分けられるようになる基盤が、この一つの単語にあることを感じる、そのような立場で勉強する人になるべきです。そうすれば、その勉強は、国のための勉強になるのです。
私が一ページの本を見ても、神様の摂理のみ旨が見いだすことができると考え、そのような深刻な立場でその一ページの本を通読した人は、神様が必要とするもののために準備していく人に間違いないので、神様はそのような人を選んで使われるのです。しかし、適当にあやふやに、ただこうでも良く、ああでも良く、何にでも調子を合わせて無節操に踊るそのような人は、その国の主人にはなれないのです。席もわきまえず、女たちとくっついて踊り、男たちと踊ったりするけれど、それではいけません。道が違うのです。統一教会の行く道は、道が違うということを知るべきです。
私たちは、善の道を行かなければならないために、生死の分岐路、善悪の分岐路、あるいは、興亡盛衰の分岐路が皆さんの前にありますが、そこにいかりの綱を掛けるようにしてはくれなかったのです。では、それをだれが支えていくべきか? 自分が引いて行くべきなのです。「こいつ、いかりの綱め」と言いつつ、自分が引いていくべきです。「善のいかりよ、昇っていこう、昇っていこう。個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、民族を越え、天まで昇っていこう」そう言うべきです。こうして昇っていくのです。分かりますか?
このような原則に従って、特に若者たちは、善悪の基準がこうであるということを確実に知って、明日の勝利者となって、栄えある祖国光復を越え、世界天国が開門する幸福の一日を迎えるべきです。そうして、勝利の王者として、王女として、神様の愛を受けるだけでなく、万国に代わってこの方を手本にしろといえるように褒めたたえられる皆さんになるべきです。(五九・二一四)
統一教会の青年たち、私たちは故郷の地を奪還しなければなりません。統一教会を信じるのは、本郷の父母を奪還するためであり、本郷の家庭と氏族と民族と国と世界を奪還するためです。分かるでしょう? そうするためには、失ったものを復帰していかなければなりません。(二一・一五九)