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二 成和青年の道

1 成和青年が行くべき道

先生は夜になると、早く朝が来るのを待ちこがれ、朝になれば、夕方が来ないことを願い、夕方になれば、夜が来ないことを願いながら、開拓者の道、先駆者の道、巡礼者の行脚を嫌がらずに、今日の統一教会を開拓しました。ここには風雲寒雪が織り込まれているということを知るべきです。悲しみの障壁が、何度も先生の行く道を妨げましたが、その度にそれを飛び越えました。その多くの悲しみの与件も、先生の行く道を妨げることはできませんでした。それが今日私たちの人生の源泉となり、天の側の力となったのです。

そうして、反対されればされるほど、私たちは視線を世界へ向けてきました。この民族は知らずにいるけれど、私たちの民族はこれから世界が歓迎する民族になるのであり、今日の大韓民国三千万の倍達民族は知らずにいるけれど、私たちの待ちこがれるその時は、名実共に来てしまうのです。ですから、私たちは歩調をそろえて、世界に行進すべきです。どこに行くにしても、私たちを妨げられない自由の天国舞台を成すために、力を注ぎ、精誠を尽くして闘い抜くべきです。倒れたとしても、それを格好良く倒れるのを男の生き甲斐と思い、誇りを持ってこの道を行かなければならないのが、統一青年男女の行く道であるということを知るべきです。(二・一六五)

若い人たちが進むべき道はどこか? 今、社会ではどのような人として進むべきなのか? 真の人となって行くべきです。「今まで、大韓民国の三千万民族が行けなかったその道を、私がうまく行くことができる」と言える人になるべきです。そのような人がいれば、希望の日が訪れるのです。そのようにして、国家を完全に凌駕することのできる人となって、天情の漂う天地村をつくり、そこで天意の勝利の条件を立てうる基盤さえ持てば、世界のすべての国家は、それに対して関心を持とうとせずとも、持たざるをえないのです。(二五・九〇)

この道は、行くまいとしても、行かざるをえない運命の道であるために、避けられません。これを収拾し、短縮して、皆さんが少しでも楽に、傷つかずに、父の前に訪ねていける道を方々探ってから、皆さんに行けというのです。その道を先生が先頭で、指導者の立場で進んでいるので、皆さんは後からついてくればいいのです。(二〇・三二三)

いくら若くても、今日のために生きる若者はだめになるのです。落ち葉になり消えていくときが来るのです。幹になれないのです。しかし、未来のために生きる人は、幹になり根になるのです。今日のために生きる人は、葉っぱにしかなれないのです。葉と同じなのです。何のことか分かりますか?  未来のために生きれば、枝となり、幹になり、根になれますが、今日のために生きれば、葉にしかなれないということを知るべきです。どれを選ぶのですか? 葉になりますか、枝になりますか、根になりますか?(根です)。根になろうとするなら、何をすべきですか? その道は希望の道ですが、その根になろうとするには、何をすべきですか?

人を評価するとき、その人が将来どんな人になるかを考えて評価すべきであり、今を考えて評価してはいけません。その人が今どんな思想を持っているか? これが重要なのです。(一一七・三二七)

2 先生の青年時代の経験

世界を収拾することは、そんなに簡単なことではありません。訓練しています。特に若者を訓練しています、自分自身が望んで訓練を。その訓練の場所は、素晴らしい所ではありません。難しい場所、汗を流す所、血まみれになる境地…。その世界的な使命を果たすには、いかなる決心をするか? その決心の途上にぶつかった場合には、それ以上の難しいことがいくらでもあります。そのときに、後退してはいけません。そこに向かって、東西南北、四方八方、上下前後、すべてに対する難しい基準を突破すべきです。

先生は、何でもしてきました。乞食にもなりました。乞食のすることもしたのです。鉱山の坑道で、炭坑の穴を掘るチャンピオンにもなりました。山に行けば、知らない草がありません。どんなものが食べられるか、すべて知っています。だれかに追われて、山に行って隠れているときは、飢えて死んではいけません。食べて生き残らなければなりません。生きてこそ、み旨を成す希望を持って進めるのです。そうでしょう? また、できない運動はありません。

それゆえ、若さを失ってはなりません。青年時代は二度とやってこないのです。貴いのです。その期間に、一人の人間としての青春を送るべきなのか、十人百人の青春の代表者として立つべきなのか? 一人、百人、千人の代表者として立つには、百人の青年がなすことのできないことも、かたずけることのできる度胸と気迫と勇気を持たなくてはいけません。何のことか分かりましたか?

そのような背景で、訓練を重視して準備をしておかなかったなら、先生もすでに過ぎ去ってしまった歴史の流れの中で、それこそ秋の落葉のようになってしまったことでしょう。それは、一握りのわずかな肥料にもなれずに、流れていってしまうのです。

若者には、できないことはありません。成せば成ります。成さねば成りません。人に不可能なことがありますか? なせば成るのです、どんなことでも。どんなことでも?(成さなければ)。成さなければ?(成りません)。人がやらないからです。

青春は美しいものでしょう。先生は学生時代、においのする男でした。そのにおいとは、香水をつけたそんなにおいではありません。汗のにおい、腐ったにおい、そして髪の毛も垂らして…。学校に行っても、言葉はありませんでした。自分が成すべきことを成さずして、何を言いますか? 時間がありません。そうだったのです。(一八七・一三七)

3 建築物の土台となれ

家を建てるなら、だれが何と言っても、まず材木がなければならず、その次には、土台を築くべきです。それゆえ、先生が材木の立場に立っているので、今は土台を築くべきなのです。土台を築くには、どこから築くべきか? 地下から築くべきです。高層ビルを建てるなら、まず地面を深く掘って、頑丈に基礎工事をすべきなのです。「ああ、苦労する必要なしに、広い砂地に建てよう」このように考えていては、家は建てられません。基礎工事をすべきです。私たちは、いまだに基礎工事を終えることができずにいます。終わったと思わないでください。今も基礎を築いているのです。

コンクリートで基礎を固めるためには、何が必要ですか? セメントより砂利と砂をまず準備しておくべきです。セメント一山を準備すれば、その何倍にもなる砂利と砂が必要となるからです。では、砂利と砂はどこにあるか? 河原にあります。河原はだれも住まない所です。また、石は山にあります。草原にあるのではありません。それ自体は、今、もの悲しい立場に放置されたものです。その次には、水が必要です。

では、統一教会で砂利にあたる人、砂にあたる人はだれか? このようになるのです。皆さん、恨めしいでしょう?「ああ、先生のみ言を聞いたら、砂利になり、砂になるのは私たちだね」と言って、気を悪くするかもしれません。しかしながら、気を悪くしても、しかたがありません。これが原則なのに、どうしますか? 皆さんに砂と砂利なんかを譲ってあげようというのです。賛成しますか、しませんか?(します)。

では、砂と砂利にセメントと水を混ぜるとどうなるか? ひとつの固まりになります。皆さんが昼夜を問わず、父母と子供を忘れたままこの仕事をするとき、皆さんの子供たちは、皆さんと一つの固まりになるべきです。そうして、これを基礎として増えていくのです。それが増えるときは、石の固まりでも増え、砂の固まりでも増え、セメントの固まりでも増えます。それが三千万よりもっと大きくなるときには、世界に騒々しい問題になるのです。

それゆえ、皆さんは、セメントになり、砂利になり、砂になり、水になるべきです。皆さんの血と汗と涙を水にして、皆さんの体は砂にして、皆さんの骨は砂利にすべきなのです。それで、自分自身の基礎を固めるべきです。そのようにして固められた基盤は、創造的なものであるため、千年の歴史が過ぎても崩れることがなく、万年の歴史が過ぎても崩れることがなく、また、いかなる団体が千年万年努力しても、崩すことはできないのです。(二八・二一九)

大きな木になろうとするなら、その立つ場所が広くなければならないのではありません。大きな木になろうとするなら、根が深くなければなりません。根の深い木になって、大きな木になり…。(一八一・一一)

天の動力者は、統一教会の若い青年男女の中で、何人になるか? 正しい時を持ち、正しい実績を持ち、正しい心情を持ち、正しい考え方を持った青年男女は何人になるか?(六三・二四八)

4 三〇歳前に苦労せよ

理論的な面で、統一教会の教会員は三〇歳前まで苦労させるという天理、哲学の道理を立てざるをえないため、先生は三〇歳まで、このやろう、苦労させようとするのです。分かりました?(はい)。

なぜ、三〇歳まで苦労させようとするか? 三数から調和します、三数から。一つ二つ、二つでは調和になりません。二点は直線にしかなりません。二点を連結すれば、直線になるでしょう? いちばんの最短距離が直線ですが、三点から調和します。二の位置、これは平行基準の垂直を中心として二点、これはこれを中心としていくらこのようになったとしても、これは変わらず、そっと置いておいてもこのように立つのです。これと同様に、三点で調和するようになっているのです。

ですから、三〇歳まで苦労すべきか、すべきでないか?(すべきです)。そう、人間は還暦が六〇です。六一に帰ってくるのです。暗い中を三〇年を歩んだら、六〇歳から先は陽の光が照る最後でありうるのです。これが歴史観ですが、東洋史観が合っているのです。そうですか、違いますか?(そうです)。三〇歳まで苦労だけしてみなさい。一生の間、六〇でなく死ぬときまででも、生活に対する恐怖はないのです、先生のように。(一八二・七二)

では、一生を考えてみるとき、「青春時代は遊ぶもの、年取って苦労しよう」その言葉はどうですか?(いやです)。なぜ「いやです」ですか? どれを取りますか? 若いとき腰が曲がるくらいのことをするのが、幸福の道を行くのだ、そんな結論ですか?(はい)。重荷を背負って行けということです。行かなければ、たたいてでも行かせるのがいいですか、ただ「弱いのに休め、近所の子供たちは、みんな遊んでいるのに、おまえもそうしなければ。お前のような若い人たちは、そうすべきだ」そう言うのがいいですか?(送るのがいいです)。そのような論法が事実なら、どんな団体であれ同じです、どんな団体でも。団体の若いやつらを全部夜明けから起こして、骨が溶けるくらいに働かせるべきか、ただ、楽に踊って歌って、キリギリスの姿になるようにすべきか?(仕事をさせるべきです)。

では、世界でいちばんいい団体はどんな団体ですか? 若いとき、ただ骨が溶けるほど、身動きできなくなるまでこき使ってですね、働かせてですね、このようにできる団体が、世界一だということです。では、ムーニーはどういう団体に属していますか? 世界でいちばん若者が多い団体は統一教会です。統一教会は、若者たちをいちばん苦労させながら、「今は死ぬほど苦労しますが、未来には幸福が来る」このように考えます。これは素晴らしい団体ですか、不孝な団体ですか?(素晴らしい団体です)。(一〇五・一七八)

5 三〇歳前には多方面の訓練をせよ

皆さんの一生の間に、経済問題はついて回るのです。これがサタンです。これがいつもついて回りますが、引っぱり出すべきです。経済問題が、逆に引っ張っているのです。先生は、追い出しても、島国であろうと、どこででも生きるのです。皆さんはみんな死んでも、私は生きるということです。きのこはどんなものが食べられ、薬草が何で、毒草が何であるかみんな知っているのです。そして、糸と針金さえ一つあれば、釣り針を作っていくらでも魚を釣ることができます。どこででも生き残ることができます。いつでも自立できる知恵があるのです。統一教会では、三〇前にこれを公式的に訓練すべきだというのが先生の哲学です。

経済訓練をして、その次には愛の訓練をすべきです、七年間。それで、私たちが復帰路程を行くのに、伝道とファンダレージングを重要視します。歴史的に見るとき、ファンダレージングは、旧約時代を通過するための方法なのです。それを知るべきです。旧約時代は、物質で祭事を捧げたのです。蕩減復帰をしていこうとするので、蕩減復帰するには物質で祭事を捧げて勝利していくべきなのです。それをパスしてこそ、その次に新約時代に入って伝道するのです。

人に迫害を受けて、鍛錬されなさいということです。先生が初めて会った人も、パッと見て、この人はああだこうだと評価してみると、みんな合っているのです。どのようにしたらそうなりますか? 人に迫害もたくさん受けて、多くの人に関わりながら研究をしたのです。それが必要なのです。「お前、ムーニー人間の世の中で、世渡りするにおいて、人を外向的な面で料理できるか?」と言えば、「イエス」と言うべきなのです。

その次は、霊界、霊界に対するすべての試練と、霊的世界の攻撃を防御できる能力を持つべきなのです。(一一七・二四、九六・一一五)

普通に見れば、若い人たちの生活は、激変するのです。青春時代には刺激的なもの、絶え間なく変化するものを好むのです。それを好むのはいいのですが、その変化する環境を吸収して、消化できる能力があって好むのはいいけれど、その能力がないのにそれだけ好んでは、自分と関係のない生活をしてしまう結果になります。青春時代には、そのような冒険生と危険性の多い時代であるため、そのようなものをわきまえていける、学びの道が必要なのです。

学びの道、先祖たちの行った道であるとか、すべての人たちが成したことを習い、経験を積むのが必要なのです。そして、皆さんが今後に行く、皆さんの未来を知らずにいるとしたら、これを克服する訓練で、内在的な人格を造成する期間も、この若い時代でなくてはならないのです。だから、この青年時代は、一生がいくら激変しても、いくら悩まされることが多くても、それを全部調整して見事に越え、格好良く克服し抜くことができる訓練が、絶対に必要だということを、私たちはここで知るべきなのです。

自分の心に合う訓練は必要であり、自分の嫌いな訓練は嫌だという人は、これから発展しうる人格を成しえない人になってしますのです。では、どんな姿勢を持つべきか? ぶつかってくる事件や問題に対しては、関心を持つべきなのです。修練を受けて、訓練を受けるとき、ぶつかってくるすべての試練の過程には、関心を持つべきなのです。その問題を考えても、それだけ見るのではなく、関心を持って前後左右を探り見る人になるべきです。(六七・八六)

若い人たちは、色々な方向に訓練させるべきです。東にも行けるし、西にも行けるし、南にも行けるし、北にも行ける、このように訓練されていれば、「あ! 私とは違うんだな、あの人はあんなことを言う」と関心を持つのです。

若い思春期時代、青春時代、すなわち、三〇歳以前には、成功して落ち着くためには、早い道、良い道を探します。しかしながら、今歩んでいる道が、早い道だと考えられないのです。東に行けば、東に行く道が、自分が成功できる、定着できる道だと考えられないのです。それよりもっと早い道が、西にもありえるし、南にもありえるし、北にもありえるので、四方について知るべきです。

自分は上がるのを願っているのに、環境により迫害を受けて降りていくところが、悪いことだけではありません。降りていく道に、自分が一生に必要な定着地を早く見つけることができると考えるのです。ですから、これから三〇歳前の若い時代においては、先覚者になりたいとか、歴史の指導者になりたかったら、三〇歳までにすべての面に手を着けて学ぶべきです。できないと思ってはいけません。三〇歳を越えるとだめです。遅いのです。三〇歳から実践段階です、三〇歳から四五歳までの一五年間は。先生もそのように計画を練ったのです。四五歳まで一五年間、実戦舞台に挑戦するのです。挑戦して四五歳まで、統一教会の歴史を一段落させるのです、一五年間に。

それゆえ、四五歳に世界一周をするのです。六〇歳まで世界で成熟期を迎えるために、闘うのです。すべてこのようなプログラムに基づいて前進しているのです。ですから、統一教会の教会員は、三〇歳までは苦労させようとしているのです。先生は、経験を通して知っているのです。そうでなければ、自分の地域の人間にもならないのです。その町内の人になるのであって、その国を管掌し、指導できる人にはなれないのです。

世界を考えているなら、三〇歳前に多方面の受難を受け、多方面の訓練をすべきなのです。「ああ、これも面白い。ああ、これも面白い。私とも関係が結べる」こう考えるべきです。「ああ、私はできないから、私とは関係ない」と言う人は、そのうち滅びてしまうのです。行く先で、自分が定着できる道を探し出せなければ、そこですべてを放棄してしまうのです。

しかし、多方面に訓練されている人は、この道がだめだったら、あの道にも行けるし、歩みながらサッと回っていけるのです。訪ねていけるのです、経験が多ければですね。それゆえ、経験のある人と、経験のない人を見るとき、同じ実力、同じ年でもだれが指導者になるか、中心者になるかという問題において、経験をだれが多く積んだかによるのです。それは理論的です。(一四四・二九三)

皆さん、硬い鉄を置いて、どれがもっと強いかというとき、ぶつけてみれば分かるのです。どれが強いかが分かるのです。そこでは大きな音がして、侵犯、侵害する問題が起こるでしょう。強いものが勝つのです。一面強いものは、壊れるものもあるのです。壊れやすいのです。ですから、硬いだけではだめです。硬いものをもって、強いといいますが、強いというのは、硬くもありますが、丈夫だという観念もあるということを知るべきです。弾力がなければなりません。

そのような鋼鉄になるべきです。皆さん、そのような人になることを望みませんか?(望みます)。そうであるべきです。統一教会の集団は、丈夫で強くあるべきです。自動車のスプリングを見てもそうです。いわば、硬いながらも弾力がなければならないのです。余裕もあり、能動的でもあり、推進力もなければならないのです。

世界に知られた日本刀、正宗という有名な刀があります。それを作るとき、一度だけ火で焼いて、たたいて作るのではないのです。高熱で焼くと絶えずかすが出るのです。それをたたいて、絶えず落としてしまうのです。一度は高い熱に、一度は高くない熱に焼く作業をしながら、たたいて焼いて、またたたいて、また焼くのです。そうしながら、ただするのではなく、精神を投入するのです。明け方に精神を投入しながらたたくのです。「この刀は、いかなる敵も、いかなるものも打てば切れる」という、作る人の精神を投入するのです。そのように作った刀を、彼と同じ思想を持って使う場合には、何でも切れるのです。そういうものだと思いますか?(はい)。

皆さんが 拳道(テッコンドウ)や空手をする人たちが、紙に棒を掛けて、バシッとたたくと、紙はそのままで、棒が折れるのを見たことがあるでしょう。先に習った人は、折っても残る所に立つのです。紙が切れるのには、時間がかかります。紙が切れる前に折ってしまうのです。ですから、作用する前にすでに終えてしまうのです。これは理論的です。論理的です。そのような人になりたくない人はいないでしょう? そうするには、皆さんも時間を投入して、訓練をたくさんすべきです。

みなさんが、ボクシングやレスリングの世界チャンピオンを見るとき、その人がトレーニング(訓練)をどれほどしたかという、その訓練の時間と量をもって、その人がこれからどれほど続くか、どれほど実力を持つかが分かるのです。皆さんが空手のようなものをするときも、このようにして、ここだけ打ってもだめなのです。水平になるようにして、打たなければならないのです。同じ力が加えられれば、同じ力を受けるため、強く作用するということを考えるべきです。

ピアノを弾くのも…。五本の指がたたく力、この指とこの指のたたく力は違いますが、それをどうやって同じようにたたくかというのが基本になるのです。そうしながら、たくさんの練習をすべきなのです。これはもっと強くなければならず、これは弱ければならないということを考え合わせて、それが全部科学的に自動的に動かなければならないのです。自分が練習して、訓練した基準がどんなものかを確実に知らずしては、名ピアニストになれないのです。

皆さんは言葉を話しますが、その言葉を話すにおいて、ある基準を持っていないのです。「私は何を基準にしてこのように話す。この言葉はここで出発した言葉だ」という観念を持っているか? ただ、聞いて話し、ただそうなのです。そのような人たちは、平面的な人間にしかなれないのです。(六七・二一三)