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三 聖子の道

1 聖子の意味

私たちの歴史上には、聖人がいます。その聖人とは、一体何か? 聖人という方々を歴史上で探してみると、彼らは全部宗教の宗主になっています。

さらに進んで、聖人の上の人を統一教会でいうには、聖子といっています。キリスト教でいう、聖子があります。その聖子とは、一体何か? 聖人というけれど。聖人自体も神様について確実に知りません。神様が人格神であり、私たちの生活の理想の表象になるという、具体的な内容がよく分からないのです。

その次に、聖子という方は、どんな方かということです。万有の存在であり、万有のエホバの、そのすべての主権者の総大将の位置で、神様の中心存在として…。彼がおられるところには、国法があるのと同時に、彼が率いる王宮の宮法があるのです、宮法。そうではないですか?

聖子は、その宮法を中心として、遂行できるすべてのことを皆履行すべきなのはもちろんですが、その王宮法において、王に侍って暮らす生活において、そこに違背する生活を通しては、王子になりえないのです。彼は、王宮の法を中心として切り抜ける位置で、王とともに永遠に共に暮らしたがる人です。王はその息子がいなければならず、息子もその父である王がいなければならない、永遠に共に暮らそうといえる立場に立つ人がいたら、それを見て私たちは、聖子というのです。(一四八・二五九)

聖子というのが何か分かりますか? 聖子は聖人とは違います。「聖人」といえば四大聖人がいます。しかし、聖子はだれもがなれるのではありません。聖子は、天国の王宮法まで守ることのできる人です。神様は天国の王宮に住む王です。その王の息子になるには、王宮法を知らなければなりません。その国の法だけではありません。では皆さん、何を知りたいですか? 皆さんの心は、何を知りたいですか? 天子になる道を知りたいですか、聖子になる道を知りたいですか、忠臣になる道を知りたいですか、孝行者になる道を知りたいですか?(天子になる道です)。欲が深いね。(笑い)天子の天の字を取って、地の千字ではありませんよ。

では、イエス様の独り子という言葉は何か? 神様の法の中で、最も貴い法は愛の法ですが、その愛の法の治理において神様が愛せざるをえない代表の位置に立ったために、独り子なのです。たった独りの息子だという言葉です。

人間世界の国の法だけでなく、天の宮殿法まで守れる人を聖子といいます。それで「子」の字を使うのです。「者」の字ではありません。分かりますか?(はい)。それゆえ、孝行者と直通できる道が忠臣の道であり、忠臣の道と直通できるのが聖人の道であり、聖人の道と直通できる道が聖子の道です。それは太く、周りが大きいのですが、その核の流れは垂直線です。ただ一つしかないのです。それは垂直です、垂直。(一七五・二一四)

2「聖子」という言葉・この上なく幸福な言葉

聖人といえば高潔な人であると見るのです。神様の前に立てる人です。聖人の中でも、聖子がいるべきなのです。神様の前において、神様の国の人になりうる人がいるべきであり、進んで神様の国において、神様を中心とした息子娘がいるべきです。聖人以上の人が聖子です。聖書にも聖子という言葉はありますが、聖女という言葉はないでしょう?

なぜそうなのか? このようなすべての歴史的背景は、霊界を知らずしては、神様の摂理を知らずしては、分からないのです。世界でいくら知識が多く、大変精通しており、自分を主張する人がいるとしても、天下の一騎当千という知識の大王がいるとしても、神様の摂理を知らずしては、自分の目的地へ到達できないのです。それを知るべきです。

愛の道をついていくにおいて、聖人になった後に占めるべきものは何か? 神様の愛の前に…。聖人は神様の人です。高潔な人。神様の前に対することができる人ですが、神様の前に対することのできる群が多くなった後には、聖子・聖女がいなければなりません。そのようになります。聖子・聖女が出てくるべきです。

その聖子という言葉、神様を中心として、自分が神様の息子・娘だといえる言葉、この言葉は、堕落した人間世界の歴史において、この上なく幸福な言葉です。福音といえるのです。(一三六・二〇六)

それゆえ、孝行者、その次には? 中心、その次には? 聖人。聖人の次には何ですか? 聖人だといって、聖子になれないのです。神様の息子になれないのです。聖子になるべきです、聖子に。いくらお上を愛し、民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の治理を受け、拍子を合わせられるもう一つの法を知るべきなのです。(一四七・二八二)

3 皆さんも聖子になりなさい

聖人は世界的です。愛国者は国家的限界を超えられませんが、聖人は世界的です。世界をどれほど愛したか? この世界が良くなるべきであり、世界が善であるべきであり、世界がすべての面で良くなるべきである、このような愛の心を持って、悪いことがあればそれに自分が責任を持って、全部解決し、良くしていくべきだという愛の心を持って、すべての生活で犠牲を払い、そのように生きていった人たちが聖人ではないか。

さあ、このように見るときに、ある孝行者がいて、愛国者がいて、聖人がいたとするなら、彼らは全部世界を中心として考えたということです。この地上を中心として考えたのです。では、この宇宙の中心である神様を中心とすれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が、神様の愛を受けるに適当な存在になるのを願うのではないか。

そのような立場で、自分は神様を愛するため、霊界のことを心配し、歴史を超越するのです。時空を超越し、霊界のことを心配し、地上を心配し、神様を心配できる人、愛で心配できる人がいたら、神様が願う人はそのようなたぐいの人ではないか。そのような人に、私たち統一教会は、聖子という名前を付けます。

では、皆さんは、何になりたいか? 孝行者になりますか、愛国者になりますか、聖人になりますか?(聖人です)。これは、賢い人、愚かな人、五色人種全部、聖人になるというでしょう。そう、聖子になり聖女になりたい人、一度手を挙げてみなさい。それは易しいことですか、難しいことですか?(難しいことです)。(一六一・一三三)

家庭で、父母のため愛する人を、何といいますか?(孝行者です)。国のために愛する人は?(愛国者です)。では、世界を愛する人は?(聖人です)。先生が教えることは何ですか? 神様と世界と宇宙を愛する、聖子になれということです。皆さんは、どれになるのですか? 聖子になるのですか、孝行息子娘になるのですか?(聖子です)。では、神様のような愛を心に持つべきです。(一二九・九九)

聖子・聖女になるにはですね、聖子・聖女になるには、私たちが何を先ず知るべきか? 聖子になるにおいて、その主題がだれになるべきか? その祈祷の主題は神様なのです。ですから、神様のために祈れということです。神様のために祈るべきなのです。神様が願う通りすべきであって、自分が願うとおりにしてはいけません。神様が望む通りにすべきであって、自分が願う通りにするのではありません。神様が主題になるということを知るべきです。主題が神様であり、その次に目的は何ですか? 目的は神様の考えです。神様が考える通りにすべきです。それが神様のみ旨というものです。神様のみ旨に従って、神様が考える通りにすべきです。それが目的です。分かりますか? 主題があるべきであり、目的があるべきです。これは重要なことです。(一六一・一四一)