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二 聖人の道

1 統一教会は「聖人になろう」を主張

統一教会は何をしようというのか? 偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけ愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それで、偉人が神様の前に立つとき「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が訪ねる世界人類を愛せなかったのではないか」と言えば、進んでいけませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様の前に直行できるのです。統一教会は、何をしようというんですって? 偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか?(聖人です)。(三八・二六三)

2 聖人の主張と教え

イ)聖人はどんな方か

聖人は一体何か? 聖人が何か分からなくても、聖人はいます。聖人は何か? 聖人は聖人でしょう。「聖」という字は、「耳」の字と、「口」の字に「王」の字が合わさったものです。耳と口が王になるのが聖人です。(一四七・二八二)

聖人はどんな人か? 聖人はどんな人かというのです。聖人というものは、すべての世界万民のために生き、夜も昼も永遠に及んで生きようとする人であり、人だけでなく、自然とか、宇宙の全部のために与えて生きようとする人です。そのような人が聖人です。ここに異議がありますか? ここで定義を下しても否定できません。(一三三・一八)

聖人の基準は、何で決定するのか? もっと大きいことのため、すなわち、世界のために、天地のために、神様のために、すべての万象のために、自分のすべてをずたずたに破ってでも、分け与えたがるところで決定されます。(二〇・一八二)

ロ)聖人は宗教と神を主張

聖人とは、国家的でなく、世界的です。また、世界的ですが、人間だけを中心として世界的であるだけでなく、神様を中心として世界的であるのです。神様を背負って入っていけない人は、聖人になれません。(三八・二六二)

今まで歴史が流れてきながら発展した、世界文化の思想的精神的起源が、どこから始まるのかというと、聖人の道理から始まってきたのです。それは必ず、宗教という背景を中心として発展してきました。(三九・二五七)

世界的な人物になるためには、どうすべきか? 人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては、国を越えられないのです。国を越えられる、そのような内容は、天にあるのです。天宙思想を持たずしては、国を超越できないのです。皆さんは、これを知るべきです。それゆえ、聖人の名簿に入った人は、全部宗教の教主であるのです。(三八・二六〇)

聖人たちは、何を紹介したかというと、人間だけ紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の身分に同参した人々を見れば、神をあがめ尊びましたか、しませんでしたか?神を除いて聖人になった人がいますか?また、聖人たちは、人類の道理だけを教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。(三三・二九一、三九・三一六)

ハ)聖人の教え

聖人は何を教えるのか? 必ず神様を教えます。(三四・一九六)

聖人たちが何を教えるかというと、全部天を主として教えました。その目的は、人間の道理を教えるのではなく、天を中心として、天意にについて教えたということです。すなわち、天のみ旨を中心として、人間が行くべき道を教えました。天意に従って人が生きなければならないということを教えてくれた方々の教えが、世界的な教えになったのです。万国の人々が、あがめ奉り、あがめ尊ぶ全世界的、天宙史的な人になることによって、聖人になったのです。(三九・二五七)

聖人は、何を教えるべきかというと、真なる生命、真なる人格を教えるべきです。その次には、真なる愛を教えるべきです。愛だけでなく、真なる人格の神までも教えるべきなのです。(一〇三・一五)

3 聖人の教えに対する今日の観点

皆さんは、宗教はみんな好きですか? 聖人が好きですか、嫌いですか?(好きです)。聖人は好きですが、聖人が築いた基盤は嫌います。聖人は宗主なので、どのような基盤を築いて聖人になったのかというと、宗教の基盤を築いてなりました。そうでしょう? ところで、今まで一般の人々は、宗教のみ言が聖人の教えだといいながら、宗教は嫌います。それは矛盾なのです。

今日、大学街のいわゆる、エリートと自負する人々、偉そうに横柄にふるまう連中、なっていない連中が多いけれど、気分が悪いですが攻撃するのです。攻撃を受けて気分が悪くても、聞いてみなさい。歴史を見れば、今日憲法のようなものも、全部聖人の道理を中心としてつくられたのです。大韓民国憲法も同じです。聖人の教えをを縮めて、人倫道徳観に立脚して、憲法を設定したのです。その骨子をどこから取ったのかというと、聖人たちの教えから取ったのです。世界の思潮は、歴史の主流思想に接近してきているのです。

このように、聖人の教えの圏内にいるのに、人々は宗教を嫌います。この頃に至ってはですね、牧師、お坊さんというと喜びますか? 好きですか、嫌いですか?(嫌いです)。では、統一教会の文先生は嫌いですか、好きですか?(好きです)。今、嫌いだといっておいて、それは何ですか? 嫌いですか、好きですか? 好きなのか、どうなのか、見てみれば分かるのです。好きだとすぐにいえないのです。「人心は朝夕に変わり、山色は古今も同じ(人心朝夕変、山色古今同)」という言葉もあるように、人の心は朝夕で変わるといったので、今皆さんがいくら好きだといっても、私は信じたくありません。

このようなことを見るとき、とても変でおかしい現実ではないかというのです。聖人の道理を好きだといいながら、聖人の築いたその本来の局面は嫌だとは、事故の起こった人間というのです。(五〇・一〇八)

4 聖人と偉人の差異

聖人はどんな方か? 聖人と偉人がどのように違うか? 皆さんは聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。学生たち、聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。女学生は?(聖人になります)。聖人になるべきです。心がもろく、か弱い女ですが、聖人になるべきです。(三九・二五五)

皆さんが世の中を見ると、偉人がたくさんいるでしょう? 世の中に偉人は多いのです。大韓民国にも偉人がいます。だれですか? 李舜臣将軍のような人です。彼は大韓民国の人々に国民思想を鼓吹させ、民族の意気を指向させる一つの中心存在として、国民が追慕し崇拝する偉人ですが、大韓民国内でだけです。日本人にはどうなりますか?(怨讐です)。日本人たちは、李舜臣の奴が死んでよかったというでしょう。言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 偉人は一つの国境を越えられません。一か国を中心としては偉人は存在しえますが、聖人はいないのです。

では、聖人と偉人の差異は何か? 国家のために、生命を捧げた人は、愛国者の名前とともに偉人の名前も得ることができますが、聖人にはなれません。聖人はどんな人か? 聖人は国境を超越した人です。これを知るべきです。聖人は民族のために生きた人ではありません。自分の氏族のために生きた人ではありません。国境を越え、世界人類のために生きた人です。自分が死ぬのは万民のためであり、数多くの人々のすべての人種と国境を超越し、超国家的であり、超宗派的であり、超人種的な立場で死ぬといいながら、全世界の人類と世界的な立場で因縁を結んで決死の道を行った人々が聖人です。皆さんはこれを知るべきです。(三八・三五〇)

5 四大聖人

人間始祖が堕落することによって、地を失い、人間自身を失い、神様を失いました。それゆえ、最後に残ったものは何か? 神様を捜す闘いです。世界四大聖人たちは、神様を捜すことをしたのです。

四大聖人といえば、だれだれをいいますか?(釈迦、孝子、イエス、ソクラテスです)。その次にはだれですか?(マホメットです)。ソクラテスを数える人もいるし、マホメットを数える人もいるでしょう?(ソクラテスが入れば、五大聖人になります)。五大聖人ではなく、四大聖人というなら、マホメットが入るか、ソクラテスが入るかというのが問題です。皆さん、ソクラテスは神を教えましたか?(教えませんでした)。

生死の問題、生命の問題に入っては、知識が価値を付与できないのです。知識には、生死の問題と生命の問題を左右しうる能力がないのです。ですから、知識を中心として真を主張する人は、聖人の側に入れなかったのです。

孝子は漠然と「偽善者は天報之以福。偽不善者は天報之以禍だ」と言いました。「天」いうのが漠然としているのです。具体的な内容がありません。天を教えてくれましたが、あまりにもあいまいに教えました。それゆえ、儒教は宗教なのか違うのか、中間の立場に置かれいるのです。そうではないですか? なぜならば、積極的でないからです。

その次に、釈迦はあまりにも冗漫です。仏教も天を教えはしましたが、確実に知らないので、その内容が難しすぎて、霊的です。神様と法を混同しています。法でありながら神様であり、神様でありながら法であるというのです。ですが、そうなっていないのです。仏教は道理の宗教なのです。訪ねていくと後では神様を否定する立場に入るのです。また、あまりに原始的であり、冗漫であるために、私たち人間と何らの関係も結べません。

回教は総合的な宗教です。キリスト教の旧約聖書を扱いながらも、コーラン教典を持って出てくるのです。ここには、聖書の内容もあります。従って、この宗教は天使長格の宗教です。宗教的な術語で、天使長格の宗教というのです。それゆえ、この回教は、共産党と野合するのです。従って、この宗教はこれから変わっていく世界に、火をつけうる預言的な宗教になるでしょう。もちろん、簡単な内容がありますが、それは全部旧約を中心として出てきたものです。他人のものを中心として出てきたものは、認められないのです。

そうであるなら、イエス様はどんなものを持って出てきたか? 皆さんは私がイエス様を信じるキリスト教を信奉するといって、イエス様を好むというかも知れません。しかし、私は本来からイエス様を信じ、イエス様が好きな人ではありません。天地の道理がそうであるべきなので、そのような内容を持った道主がだれか、そのような聖人がだれかというのを分析してみるようになったのです。

キリスト教が世界的な内容を持った宗教ならば、神様はその宗教を通じて世界を支配できる終わりの日の使命を果たさせるでしょう。これは、名実共にキリスト教文化圏が、今日の民主世界を支配している事実を見ても分かるのです。

では、イエス様は何を中心として教えたか? イエス様は、具体的に教えました。他のことは具体的に言ったとはいえませんが、これだけは具体的に言いました。神様に対して、だれよりも先に「神様は私の父だ」と言いました。この言葉はよく言いました。人情を中心として、天情と天倫に到達できる、新しいみ言であるのです。歴史以来このように言った人は、イエス様が初めてです。

その次にイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。相対が全部新婦になるのです。事実、人間の世の中において、新郎新婦以上近いものはありません。また、イエス様は、「私はあなた方と兄弟だ」と言いました。これ以上近い関係がありますか? 皆さんはこれを知るべきです。それは、何を言うかというと、神を中心とした、神義による家庭と人義による家庭について言ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下すものであるといえます。このような内容は、キリスト教でだけ言ってきました。

6 聖人中の聖人

もう一言言って、先に進みましょうか? 聖人中の聖人はだれだろうか? これをもう一言言って、先に進みます。天道には、天倫と天情があります。そして人倫と人情があります。このような人情と人倫、天情と天倫は、人間を中心として統一、すなわち一つになるべきなのです。それでこそ、神が喜ぶのであり、また、神が喜べば人間が喜びうるのです。すなわち、神が幸福であってこそ、人間が幸福になれるということです。それは、なぜそうなのかというと、父親が幸福であってこそ、息子娘が幸福になるのと同じであるためです。そうでしょう? 父母が喜んでこそ、その家の中が安らかなのと同じで、神が幸福であってこそ、人間も幸福であるのです。しかし、いまだ神が喜べる日が来ないので、今日の人類世界にも喜びが訪れないのです。

では、聖人中の聖人はだれか? 神と人間は人情と天情、人倫と天倫が一つになりうるところで、父子の関係を結ぶべきです。聖人中の聖人は、人として、このような、心情的であり情緒的な内面を備えた教えを残していった人です。そのような人が、聖人中でも最高の聖人になるのです。皆さん、そうではないですか? これは間違いのない理論であり、また、その理論の結果でもあったのです。(三九・四一)

聖人中の聖人は、どんな人かということです。神様のために生きた人は聖人です。それゆえ、釈迦やマホメットやイエスは聖人ですが、全部神様を認めました。神を主として生きた人たちです。その次には、どうやって生きたか? 神様を愛するように、人類のため生きたのです、人類のために。神様のために生きていこうという人は聖人です、聖人。それは合っていますか?(合っています)。

イエスが十字架を背負いながら、なぜ怨讐のために祈ったかということです。神様が彼らを愛されるので、神様を愛し、神様の愛するその怨讐まで愛さなければならないので、イエスはそのような愛を実践するため、死の場でも神様以上に彼らを愛し、天国の懐に帰ったのです。それで最高の聖人なのです、最高の聖人。(九五・一九〇)

7 聖人・当代には冷遇される

聖人はその時代にどのようにしたのかといえば、人間たちが行くべき真なる道を教えました。聖人は、その時代の民のため、未来に訪れる世界を教えましたが、無知な民は理解できなかったのです。なぜか? あまりにも差があったためです。しかし、その時代の主権者たちは、聖人を捕まえて殺し、迫害し、追い出したのです。

そうだといって、その聖人は、国を売り、国を滅ぼしたのではありません。その国を混乱の中から救い出し、未来の希望の国にしたり、どの国よりも高貴な国にするために考えたにもかかわらず、人々は彼が分からず、支持することができず、追い出すことをしたのです。しかしながら、聖人は、万民が行くべき道に対する道理を備えたため、世界の人々は、その道理をだんだん受け入れ、世界的な文化圏を形成してきたのです。(三九・二五六)

聖人はどのような人か? 国家的な人物ではなく、世界的な人物です。聖人といってその国で迫害を受けなかった人はいません。インドの釈迦は、国の王子として生まれましたが、人生は苦海といい、真理の道を探すため、王子の位置も捨てたのです。このようにして、仏教がインドから出てきましたが、インドには仏教人が多くありません。聖人といって、その国から待遇を受けた聖人はいません。聖人を待遇する国がなかったのです。いつも迫害しました。(三九・二五五)

歴史時代の聖人たちは、その時代には冷遇を受けましたが、歴史が過ぎた後に蕩減して、言い換えれば、損害賠償を請求し、その時代の実績基盤が高くなるため、すべての聖人たちは歴史が過ぎた後に待遇を受けるのです。善悪の戦法において、悪は打って失い、善は打たれて取り返してくるのです。(一四〇・二六三)

8 聖人はあがめ奉る対象

どうして、偉人や聖人の後孫は追慕すべきなのか? 彼らの心の中には、精魂込めた歴史的な事情が絡み合っており、善の事情と曲折がその中に絡んでいるためです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基盤を通して精誠を尽くすべきです。そうしなければ、目的に向かう道と関係を結べません。たとえ堕落の後孫であっても、人心は天心に通じるので、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が歩んだ道を追求するのです。それゆえそれは、本然の価値を追求することであり、自然的なことです。(一七・二六八)

歴史に残る人々は、どのような人か? 個人を中心として、死んでいった人が、その時代の人間たちの前に追慕の対象になり、歴史過程に残りうるかというと、そうではないのです。個人よりも家庭のために死んでいった人は、数多くの個人の追慕の対象になりうるのです。家庭よりも宗教を中心として、民族のために死んでいった人たちは、すべて家庭があがめ奉る対象になるでしょう。さらに進んで、宗教の名前を持って、世界のために死んでいった人は、その宗教を追求する民族の前にあがめ奉る対象になるでしょう。(二七・一七三)

すべての聖人たちは、その時代の歴史路程の中で、歓迎される人はいませんでした。死んだ後に百年千年歴史が過ぎた後に、墓の骨もみんな腐って、灰になった以後に、歴史上の追慕の対象として残るのです。それが今まで聖人たちの道であったのです。(一二七・三三)