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第二節 心と体の関係

一 本然の心と体

1 本然の心と体の関係

私たち人間は、心と体を持っています。この心というものは、神様と離れていてはいけません。これが一つにならなければなりません。では、この体はどこにあるべきかといえば、神様のみ旨と一つになっていなければなりません。皆さんの体を中心としてみれば、体には五官というものがあります。その五官がどこにあるべきかといえば、神様のみ旨とともにあるべきなのです。体がそういう感覚のみならず、どこに向かって動いて行くべきか? それは神様のみ旨の方向と一致すべきです。(六九・二七四)

心と体について考えてみると、心は大きいですが、体は小さいのです。このように、心と体は常に相対的関係を結んでいます。それでこそ、互いに刺激を与え合うことができます。それで、自分が喜びや悲しみを感じるのです。それゆえ、相対的関係を結ばなければならないようになっています。(二七・六〇)

2 人間の本然の心とは

イ)心の主体と宗教

私たちには心がありますか、ありませんか? 見ましたか、見ませんでしたか? 見られなくても心はありますが、この心の主体はだれであり、心の主人に会ってみたのかというのです。喜ぶには、一人きりで喜べますか? 絶対不可能です。一人きりで座りながらニヤニヤしていたら、狂ったといわれるのです。心と体は互いに闘います。互いに闘うのは、体が心を嫌い、心も体を嫌っているということです。ところで、互いに嫌いあっているということは、それでも互いに好きあう別のものがあるために、嫌いだというわけです。嫌いなものがあるところを見ると、好きなものがあるということです。

では、その好きなものとは何か? 心の対象は何か? 心は目に見えないので、その対象も見えません。聖人たちはそれを追求してきました。(四一・七三)

神様の息子、娘になるのには、体をもってしてなれますか? なれません。神様は無形の神であるので、その相対となるためには、有形ではだめなのです。神様は無形の主体としての絶対者であり、中心存在です。そのようなお方の相対的な位置に立つためには、有形体ではいけません。無形の相対的な内容をもった存在でなければいけません。絶対的であり、無限であり、途方もなく大きい神様であるがゆえ、その対象的な位置に立とうとすれば、途方もなく大きくもなれ、途方もなく高くもなれる無形の姿を備えていなければなりません。人間において、それは何かというと、体ではなく心なのです。(四一・六七)

人間において、偉大でとてつもないこの心が、喜ぶことのできる主体者に出会い、彼とともに永遠に幸福を讃美しうる位置に入ってみれば、どれほど素晴らしいでしょうか? そうした位置は、それこそ貴い位置なのです。それゆえ釈迦牟尼のようなお方は、天上天下唯我独尊といったのです。全天地間に自分だけが貴い存在だといえる境地にまで到達したということです。神様も知ってみれば、自分と同じだというのです。

ですから、心は目に見えない神を好みます。心は相対することのできる対象に出会うまでは喜ぶことができません。今まで人間は体が喜ぶことのできる相対に出会おうと、享楽などにふけりながら、一度しかない花のような青春時代を何もせずに送って良いものかと、体本位の血気旺盛な青春時代を誇っていますが、そういうものは長続きせず、終わってしまうのです。私たちが一生を最後まで生きてみれば、その行く末を見ることができます。

享楽の道はどんなに行っても虚しいのです。ですが、心が願う世界の喜びというものは、すべてやってみることができるかといえば、それはやってみる機会もないし、やってみる能力もないのです。では、それは存在しないのか? 存在するのです。こういうことを知ったために、知恵深い人たち、真なる人の道を行こうとする人たちは、そうした目に見えない心の相対を求めてさまようのです。この宇宙を創造した神が存在するとすれば、それは天宙の中心であり、絶対的な方です。私たちは「神は私の心と相対なさる。」」このように主張せざるをえません。

それゆえ、主張するその内容を個人的なこととしてのみならず、世界性を帯びたこととして体系化させ、過去、現在、未来を超越して、人類の新しい希望として登場することのできる、一つの思想的なものとしようとすること、即ち、神を中心とした新しい思想的な体制を整えてみようというのが、人類の心の願いです。その心が願う世界は、現在の社会組織のような形態の世界ではありません。

心が喜びうる、内的な世界のような組織的な形態を整える仕事を、歴史を経てきながらやってきたこと、言い換えれば、良心を持った人間たちが願う背景、背後の基盤を、歴史を通じて残してきたのが何であるかといえば、宗教なのです。その宗教は、ある一つの民族に帰結されるものではなく、世界に包含されるものです。宗教は一つの民族国家で発生しはしましたが、その民族の宗教としてのみならず、民族を越え、世界に連結される宗教形態として発展するのを、私たちは見ることになります。(四一・七一)

ロ)本然の心の動き

昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を敬う敬天思想とともに、万民を愛せということです。天を愛し、地を愛し、人を愛せと教えたのです。

では、皆さんの心は天に接することのできる百パーセントの要素を持っているでしょうか? 世界人類に接することのできる、百パーセントの要素を持っているでしょうか? 持っていますか?

本心自体を分析してみれば、天を愛し、地を愛し、人を愛することのできる本然の心があります。この本心は、どんなに消そうと努力しても、自動的に生じるのです。こうした本心があるために、歴史的に理想世界、すなわち本郷の国、本郷の世界を追求してくることができたのです。それゆえ、本心作用は自分によって始まるのです。「だれだれ」と言えば、その人の看板だけを見ます。しかし、その人をはっきり知ろうとするなら、その人の心を見なければなりません。(一九・二八五)

皆さん、統一教会に通うようになればそうなのです。昔は朝に目を覚ましてご飯を食べると、学校に行くのがお決まりだったのに、教会に入ってきてからは、学校に行くのも仕方なく…。そして行くときも教会に寄って行きたいのです。ここにいる学生たち、そういう気持ちになりませんか? そういう気持ちのない人は統一教会員ではありません。

また、家に帰ってじっとしていると、家にはお父さん、お母さんもいらっしゃるし、食べ物もたくさんあるし、部屋も良いし、何不自由なくすべてがそろっているにもかかわらず、どこか、心がカラカラになり、教会に行きたいのです。見かけは良くない所ですが、それでも教会に来れば気分が良いのです。家に帰りたくないのです。そんな何かが感じられるのです。そう感じられますか、感じられませんか? そのように感じられないなら、統一教会員ではありません。皆、かかしだというのです。

ではそういうことを体が感じますか、心が感じますか? 体にしてみれば自分の家の方が居心地が良いのです。家では食べるのも良いものを食べますが、ここにはカクトゥギ(大根のキムチ)しかありません。キムチがあっても取るに足らないもので、それも無くて塩につけて食べたり、チョンガクキムチ(小ダイコンのキムチ)一つで茶碗一杯のご飯を食べながらも、ご飯がおいしいと、きれいにこそげ取って食べるのです。それはおかしいというのです。どうしてなのでしょうか? 体が喜ぶからでしょうか、心が喜ぶからでしょうか? 見えない心が喜んでそうなるのです。何のために? 心が主人に出会って、心の本郷をたずね、心の国をたずね、心の世界をたずねることができる道に入ってきたためです。江原道の山奥に入り、穴を掘って畑仕事をしていた人が、自分の故郷に行くというとき、山奥の家を出るその気持ちが良いでしょうか、悪いでしょうか? 気分が良いのです。今出発する場所は山奥ですが、故郷に行くと考えれば気分が良いのです。

なぜ良いかというと、行こうとする目的地が正しいということを心が知っているので、心のアンテナを中心として電波を授け受けするようになれば、無理なく、ぶつかり合わずにどんどん回って行くのです。それゆえ、力が湧いてくるのです。それと同様の原理なのです。(四一・七四)

ハ)心の大きさ

皆さんの心は狭いですか、広いですか? 心がどんな姿なのか、皆さん自身はよく分かりませんが、心とは無限に大きいものです。では、その心はどれくらい良いのか? 世界の三〇億の人類一人一人に何百億ウォンずつ与えても、また与えたいのが心なのです。そうですか、そうじゃないですか? 心はこのように素晴らしいのです。それゆえ、人間は無限な愛、無限な希望の花を咲かせることができるのです。それはどうしてでしょうか? 無限に神の性禀に似たからです。(二七・六〇)

それでは皆さんの心はどれくらい大きいでしょうか? これは測定することができません。大きいといえば無限に大きいのです。測定できないくらい大きいのです。それはなぜそんなに大きいのでしょうか? また小さいといえば、途方もなく小さいのです。針の先も入り込めないほど小さいのが人間の心だというのです。大きく広げれば無限に広げることができ、狭めれば無限に狭めることができるのです。そういう本質、本姓を持っているのです。それはなぜ、心はなぜそのようになっているのか? それは神様が臨在することのできる神の宿になっているからです。(一四五・三一三)

心の対象に出会ったならば、その喜びはどれほど大きいでしょうか? その喜びは一日、二日で終わるでしょうか? どれほど大きいか見てごらんなさい。心は神様に侍るだけでは喜びません。神様の内深くに秘められている愛までも、しっかりつかまえてこそ「へへ」と喜ぶのです。お母さんが自分に愛をくれるときも、気まぐれな愛を望みはしません。お母さんが持つただ一つの真実の愛を、自分にすっかりくれてこそ「へへ」と喜ぶのです。(四一・七三)

ニ)心の基・情・知・意

私たちの心の基を分析してみると、知・情・意から成っています。その中でもどこにとどまるでしょうか? 知・情・意のどれが根本であるかというとき、意でもなく、知でもなく、情なのです。皆さんは自分にとっていちばん大切なものがあるならば、それをどこにしまっておきたいですか? 自分しか知らない場所にしまっておきたいのです。そこは、だれも触れることができず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理することのできる場所です。それはどこでしょうか? 心の奥底なのです。心の奥底に埋めておくのです。ここならば安心だといえる場所にしまっておくのです。すなわち、人々が普通貴重品をしまっておく、たんすのような場所にしまうようになっています。こうした点から見るとき、真なるものがとどまりうるところは、自分自身の心の奥底なのです。

情は、独りでは成り立ちません。それは相対的なものです。相対的観念でなくては成り立ちません。どんなに仲むつまじい夫婦がいたとしても、子供が無くては寂しいし、つまらないのです。若いときはどうか分かりませんが、年をとるごとに夫婦だけではどこに行くにしても物寂しく退屈なのです。その前に息子がいて、息子が父母を案内して行くのが、より調和するのです。子供がいない人々には希望がありません。子供が希望なのです。その子供がなければ、希望もないのです。真なるものとは、それ自体永遠なる希望として広がっていくものです。瞬間的な希望ではない、永遠の希望として広がっていきます。また、心情的なことも、永遠の希望とともに永遠に共存するのです。このように情を中心として見るとき、どんなに優れた女や男であっても、独りでは相対的関係を成しえないのです。(二四・三一九)