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1 孝行者とは何か
孝行者とは何か、孝行者? 父母様がいちばん好きなことを中心として、いつも考えながら、そのことを行動になして、相対役をするという人、そのような位置に立った人を孝行者というのです。同じ結論です。そのような息子においては…。
また、五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと好むものを、言葉を聞くときにも「ああ、このような言葉が好きですか、どうですか?」というのを感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が、父母様を中心として愛と化しうる心情圏を恋しがる人が孝行者ではないかというのです。悪いことがあってはならず、良いことだけがあるのを願い、もっと良いことで発展し、もっと素晴らしいことを願うのです。(一六一・一三二)
2 孝行を重要視する理由
世の中では、孝行者を重要視します、孝行者。これは、蘇生です。分かりますか? 孝行者とは何か? お父さんお母さん、おじいさんおばあさんまで、仕えることができてこそ孝行者です。これを知るべきです。三代を経るべきです。その次に、忠臣とは何か? 忠臣も同じです。忠臣は、息子の位置において、王を中心にして、父母に侍り、神様を中心にして、おじいさん、おばあさんに侍るのです。神様をおじいさんとして侍るのです。(九六・三一)
孝行息子娘になれという言葉は、良い言葉です。今日、世代の差があるといいますが、お母さんの世代と若い世代と差があるということをいいますが、とんでもないことです。お母さんの世代と若い世代と、愛にも差がありますか?
皆さん、家庭で「孝行せよ」といいますが、なぜ孝行せよというのか、ということです。それは、父母を中心として、父母が行くべき愛の道に同参者になれというのです。その父母の真なる愛に道には、天倫が従うのです。父母だけが行くのではなく。見えはしませんが、縦的な天倫がここに因縁づけられていくため、父母と一つになれというのは、天倫の歴史、見えない縦的な歴史と、横的な歴史の両面の心情圏を受け継いで行けというのです。これが父母の前に孝行しろということです。これが分からなかったのです。この頃は「父母の前に孝行するのが何だ?」と言うのです。アメリカでは、そう考えています。「父母たちが私たちを産むとき、私たちを考えて産みましたか?」と言うのです。
それは、この原則を知らないのです。すべての歴史は、縦的な基準に立ってこそ、横的な基準に立つようになります。皆さんがビルディングを建てても、まず全部垂直線を合わせてこそ立つのです。その次に、水平線を合わせなければ、いくら高層の建物でも倒れるのです。同様に、私たち人間が、世の中に立っているということ自体が、既に縦的基準を合わせたということなのです。(一三六・二〇三)
3 孝行者はどのようにしてなるか
イ)父母の心の方向と一致すべきである
孝行息子娘になる秘訣はどこにあるか? 内的な基準と外的な実体基準が符合しなければなりません。(一二・一七四)
孝行者が貴いのは何かというと、変わることのない愛で、幼いときも、成長するときも、老年時代も、変わらない愛を持って父母を敬うためです。そのような人を孝行者というのです。(一六八・一六三)
孝行者になるには、どうすべきかというと、いつも父母の心の方向と一致すべきなのです。孝行者の道を行く人は、父母とかけ離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば、東に行くべきであり、父母が西に行けば、西に行くべきなのです。行ってから、行く目的を提示してから、一度に後ろへ振り返れといったら、振り返るべきなのです。そこには異議があってはいけないのです。十回行って、十回振り返ったとしても、また振り返ってついて行くべきなのです。
「ああ、父母がどうして? 十回行って、十回振り返り、十回こうだああだという。ああ! お父さん、お母さん、私はもう気持ちに合いません」と言って変わっては、最後まで孝行者の道理を守れないのです。父母が狂ったことをしたら、子供も狂ったことをすべきなのです。父母の命令ならば、狂ったことでもすべきなのです。狂ったことをするそれ自体はだめですが、父母が知らずにするのなら分かりませんが、知ってやっているのです。
では、なぜ父母が狂ったことをするのかということです。孝行者の中で最高の孝行者を選出するためには、その道しかないためです。百人の孝行者がいるならば、その百名の中で最高になりうる孝行者にするため、その父母は狂ったことをするでしょう。百回行って振り返り、百回気まぐれになるでしょう。千回気まぐれになるでしょう。しかしながら、その気まぐれを事実と思い、命を捧げてその父母の命令の前に絶対順応することによって、彼は孝行者の王になりうるのです。孝行者の中で孝行者を治める王になりうるというのです。そうではないですか?
そうなるときは、そのような狂ったことを、天職と思ってできなければならないでしょう。「ああ! これは私の常識に合わないから、それは分からない」と言えば、ここから孝行者の道理は行き詰まってしまうのです。孝行者の道は切れてしまうのです。それゆえ、最高のある一つの峠を貫いて越えうる世界的な孝行の道があるのではないか。そうであるのです。
では、神様はどんな方か? 神様は人類の父母にもなる方であり、神様は人類の王の中の王にもなる方であり、すべての中心にもなる方です。その神様の息子になるためには…。個人的な一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば、孝行者ですが、その孝行者は世界的な孝行者になるべきなのです。そうではないですか?(六二・三二)
ロ)父母の心情と事情が体恤されるべき
私たちは、孝行者の道を行くべきです。孝行者の道を行くべきなのです。神様が世界情勢を前にして深刻ならば、その深刻さ以上夜を徹しながら、あるいは自分の一身を忘却しながらすべてを忘れて、体恤的な境地で心配する心を持って、神様のためになる息子娘になるという身もだえをする人がいるか? 問題はここに帰結するのです。(六二・三五)
孝行者とは何? 孝行者は父母の悲しみに代わって責任を持つため、困難な場を訪ね、責任を果たすことによって、父母に喜びを捧げうる人です。父母が十くらい仕事をするのに、子供は十五くらい努力したら、父母は五に該当する喜びを感じるようになるでしょう。そのような分野をそのように補充して、父母のために捧げうるかを考えながら努力する人が、孝行者なのです。(二四・二六一)
皆さん、町内でもそうではないですか? 国ならば国で孝行者だといって孝行賞をあげるとしたら、博士学位を持ったために孝行者になれますか? それが条件に入りますか? たくさん習って、ある学校を出たといって、孝行者になるという条件に入るのかということです。入らないのです。どれほど自分の心と体を投じて、父母を愛したかということが問題です。夜昼いつでも変わらない心を持って、その父母を絶対視し、国の代わりに、神様の代わりに、その父母を絶対視する人たちが孝行息子娘というのです。(一四七・二三二)
ハ)父母の困難に耐えるべき
孝行者の道、孝行者になるべき道、その孝行者が行くべき道は…。父母が願うことが十種類あるなら、その十種類の中で、いちばん重要なことに責任を持って解決する子供が、孝行者ではないか。息子が十人いるなら、十人の中でだれがいちばん孝行者か? 父母の十種類のことの中で、いちばん難しいことについて「これは私が責任を持つ。私がこの問題に責任を持って解決して、父母を愛する」と言って立ち上がる息子は、どんな息子よりもその父母の前に記憶される息子ではないか。そのような息子であるほど孝行者の位置に近くなるのではないか。
このように見るとき、易しい場で易しいことをして、孝行の道理をするという人よりは、この上なく難しい場で孝行の道理を果たそうとする責任者、そのような位置に立った人、そのような位置に立った息子娘が、孝行者が行く道に入った人ではないか。それは間違いないのです。(六二・二三)
父母が悲しむ内容を深く知っている子供であるほど、その父母の悲しみが解消するのをひたすら願い、自分が仕事をする環境を越えて、その心配な事実が解消するのを願うのが、子供の願いではないか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも、父母の悲しみをもっと早く解消するのを願う心を持った人がいたら、それは孝行者といえるのです。しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのに「父母が私の心配事を考えるべきだ」と言い、父母の心配事よりも、自分の心配事をもっと考える人ならば、その人は父母と一つになっていない人です。
孝行の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却する人は父母と急を要する場で、一つの因縁を結べないのです。自分を主張して、自分の悲しみを知ってくれと要求したり、父母の悲しみはそっちのけにして、自分の悲しみだけに責任を持ってくれという息子がいたなら、彼は孝行者にはなれず、不孝者のなるのです。これは私たちが日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつでも体験することです。
また、孝行者としての価値は何か? 自分の困難もあるでしょうが、父母の困難をもっと心配しながら、自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に、父母の困難を加えて心配する位置に立っても、これを当然のこととして消化して受けとめうる位置から孝行の道は始まるのではないか。子供が父母の困難を等閑視し遠ざけるとき、ここに決裂が起こるのです。孝行の道でなく、不孝の道が生じるのです。兄弟の困難を自分の困難よりもっと重要視しないとき、兄弟間の関係は、疎遠になるのです。このように見るのです。(六二・一八七)
ニ)「孝行者」という言葉は悲惨を随伴
真なる孝行者が行く道は、平坦な道ではありません。孝だ忠だというその言葉は、悲惨な言葉です。孝行者になるためには、自分を考える心を持ってはいけません。
孝行者になろうとするには、どのような位置に立つべきか? 死の道、いちばん受難の道に責任を持てる位置に立つべきです。(六二・三七)
孝行者の手本は、どこで設定されるか? より悲惨な位置で…。より悲惨な位置とは、死ぬ位置です。死ぬ位置でも、いちばん悲惨に死ぬ位置で手本が設定されるのです。合っていますか、間違っていますか?
さあ、孝行者がいるとしましょう。孝行者は過去から現在まで、時代時代ごとにいるでしょう。その中で、一等孝行者を選ぶとすれば、どんな人を一等孝行者の標本に選ぶだろうか? 年取って孝行して死ぬのより、若くて年取った人以上に孝行をしたら、もっと貴いのです。孝行者もさまざまです。貧しい人、富裕な人、力仕事をする人、乞食の人、あらゆる階級がありますが、孝行者はみんないます。
真なる孝行者になるには…。生きている人は、真なる孝行者になれないのです。生命をまだ残している人は、孝行者のたぐいに入れません。なぜそうなのか? 孝行するために数多くの人が死んだのに、死んでいない人が孝行者の表彰を受けたら、孝行するために死んだ人たちに讒訴されるのです。そうではないですか? そうでしょう? それゆえ、真なる孝行者は、死んだ後にこそ現れるのです。
死んだ人の中でも、孝行するため、道を歩いていて死んだ人もいるでしょう。お父さんお母さんが病気になったため、薬を買いに行って死んだ孝行者もいるでしょう。薬を買いに行くには、自分のお金を持って買いに行く人もいるだろうし、お金を借りて買いに行く人もいるでしょう。難しければ、難しいほど、その価値が大きくなるのです。そうでしょう?
では、自分のお金を持って薬を買いに行って死んだ人と、お金を借りるために三ヶ月、十日と苦労してお金を借りて、薬を買いに行って死んだ人がいたら、どちらの人が孝行者の手本になる位置に上がるでしょうか?(後者です)。後者でしょう。それはみんな分かるんだね。それがみんな分かるため、復帰が可能なのです。その内容が、複雑で難しくて悲惨なほど、ものすごいほど、悪いのではなく良いものとして登場できるようになるのです。
薬を買いに行って死んだのと、薬を買って煎じて死んだのと、どちらがましですか? 薬を煎じて捧げて死んだのは、劣りますか、ましですか? ましなのです。このように見るときに、難しい内容を持てば持つほど、孝行者の順序において、その等級が高くなることは言うまでもないのです。ここに異議はないでしょう?(四九・二八〇)
家庭において、孝行者は孝行者自体で見ると悲惨なのです。なぜ悲惨なのか? 食べるものがあっても、勝手に食べられないのです。おいしい食べ物があれば、それをつかんで涙を流さなければならないのです。「うちのお父さんとお母さんが七〇、八〇になったのに、二人がこの地に生きられるなら、どれほど生きられるだろうか、召し上がれば、どれほど召し上がれるだろうか、お膳を何回受けられるだろうか、亡くなられる日が、私の何分の一しか残っていないのだなあ!」このような心を持って、長く生きられない父母を、自分の生涯を傾けて、精誠を尽くして奉養すべきです。
孝行者は、食べるものも食べられず、喉が詰まって泣く人なのです。食べ物を食べて、独りですすり泣けば、狂った人だというでしょう。ある意味では、狂った人のようなのです。「おいしい食べ物があれば、食べればいいのに、どれほど食べたいものだったろうか? それなのにああしている! あいつ」と言うでしょう。それはどれほど悲惨なことですか? その泣き叫ぶざまをだれが好みますか? しかしながら、孝行者は生活を自分勝手にできないのです。
良い景色、良い山野を眺めれば、うちのお父さんとともに…。良い季節がやってきて、その季節を鑑賞できる場に立てば、自分一人ではなく、お父さんと一緒に見たらいいと…。それが恋しさとして表象され、涙で明らかになるその場は悲惨な場です。涙を流す場、それ自体を見るならば、苦しい場です。しかしながら、その場が不孝な場かというと、幸福が宿る場なのです。そうではないですか? それゆえ、涙を流す生活は、悪い生活ではないのです。
食べるものがあって、着るものがあっても、国と公的なことを心配しながら、食べられずに、着られずに苦労する群があるなら、見た目には悲惨ですが、そこは永遠な慰労の涙に囲まれているのです。永遠に褒めたたえる唱詠と歌に囲まれているのです。それだけでなく、永遠な希望の天国が贈り物として、準備されるのです。ところで。それがなぜかわいそうですか? かわいそうなようですが、悲惨なようですが、勝利の権限を得た栄光の位置に立てる位置が、その位置であるのです。(五一・三二六)