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1 心と体の闘い
皆さんの体と心が互いに闘うのは、堕落したためです。それは本来、神様が闘うように創ったのではなく、神様の前に背反しうる要素を持った、サタンの血統を受け継いで生まれたためです。もともと神様と人間の前に、心はプラスなのに、堕落したために、体がプラスになろうとします。それゆえ、二つのプラスが対立してぶつかり合っているのです。(一九・一九四)
堕落によって、体と心が分かれてしまいました。体と心が分かれると同時に、体が行く道と心が行く道も分かれてしまいました。これが問題なのです。これをどのように一つにするか? 一つにするには、何によって一つにするか? これを一つにするためには、堕落した動機を知らなければなりません。堕落した動機を知って、堕落しなかったとき行くべきだった本来の道を知るべきなのです。(一四〇・一三)
2 心の願いと体の願い
皆さんの心と体は分かれているでしょう? 心と体が闘うでしょう? 歴史以来今まで、数多くの聖人賢哲たちや、数多くの人々が生まれては去って行きましたが、心と体の闘いを解決した人、統一したという人は、一人もいませんでした。パウロのような人もこう言ったではないですか?「私の中に二つの法があり、善と悪が闘っている。」と。いつでも人間は、善の法に従って行くのを願わず、悪の法に従って行くのです。それで「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。」と言ったのです。パウロのような人でさえそう言ったというのです。「だれがこの罪の法から解放してくれるのか? 主イエス・キリストの内にある神の愛によってのみ可能である。」と、言ったのです。(一八七・四一)
それゆえ、昔から数多くの聖人賢哲たちがこの地上に生まれ、苦労して探そうとした内容は、一貫して、体の人を克服して、心の人が追究する、人間の行くべき完全なる真の道を探すことでした。その問題を解くために、生涯をささげて研究し、命を懸けて闘ってきましたが、未だにその問題を、科学や数学のように何らかの公式を作って、こう問えばこういう答えが出てくるという具合に、明確に解くことができないまま、歴史は流れてきているのです。そうした歴史の中で、今日皆さんがこの場に来て、統一教会の文先生に出会い、こういうみ言を聞いているのです。
では、皆さんの前に横たわった問題、すなわち人生の行く道は何でしょうか? これが問題です。二つのわかれ道の間で、右往左往している人間たちの行く道はどれかというのです。昔の人々は、人心は朝夕に変わり、山河は今も昔も変わらないといいましたが、人の心はそんなに変わるものではありません。人間が変わるのであって、人の心が変わるのではないという意味です。人間が変わるので、心も仕方なく従っていくため、心が変わるように思われるだけです。心は常に善の側に立っているのに、変化する人間に従って行動してみると、心も悪く変化するもののように見えるのです。それゆえ人の心が変わるといったのは、間違っていったのです。
人は、心が望む道と体が望む道とのわかれ道に立っているのです。ところで、この世の中は、心が望む所に向かって行く道を保障してくれ、心が願う志のために生きることのできるような環境を整えている所ではなく、体が望む所に向かって行くように誘引しうる与件が万全の準備を整えているような所です。それゆえ、私たちが生きているこの世の中は、善なる世の中ではなく、悪なる世の中であることに間違いありません。どんな世の中ですって?(悪なる世の中です)。
悪の蛇が皆さんのお尻にいかりを差し込み、道をふさいでいるのです。それがだれかは分かりませんが、このように皆さんの行く道をふさいでいる怨讐がいるとするなら、許すことができますか? 許すことができないのです。体が望むままに行ってみたら、途方もない罠にはまって、人生の行くべき道など夢にも考えられない、人生とは関係ない禽獣のような悲惨な運命に逢着するようになるのです。これが今日の人生行路なのです。それゆえ、私たちは何としても悪の侵犯を受けずに、心が行くところに従って注意して用心しながら、警戒線を踏み越えて行かねばならない過程に置かれているのです。
それで、人倫道徳だとか何らかの宗教とかいうものは出てきましたが、それらが人間をしてこうした道を完璧に正しく行かせるために、絶対に必要な要件として要求していることについては提示できずにいるのです。(三八・三一〇)