P.60

第二章・私・と真なる人の道

     

第一節 私 

一 「私」はだれか

1 自覚すべき「私」

「私」とは何でしょうか? 心が行ったり来たりすれば、体も行ったり来たりして、「私」という人間はじっとしているでしょうか? 行ったり来たりするとき、良い所を行き来するならいいのですが、悪い所にも行き来します。それを知らなければなりません。

私が自覚するとき、その自覚とは何でしょうか? 「私は絶対中心である。天地が揺れ動き、天下がひっくり返っても、私が立っている姿は起き上がりこぼしの如く、座っても立ってもその位置は不動である。心の位置の確立! 神様が追い出そうとしても、私の本然の位置は神様が願う位置であるから、神様は追い出すことができない。」このようでなければなりません。何ものをも制御し、防御し、それ自体の姿の主体性に被害を受けずにいられる。そうした位置に立っていなければなりません。心の位置の確立! これが絶対必要です。

心の位置を確立するにおいて、どのように確立するのでしょうか? 南へ行くべきなのに、北に向かって確立すれば、大変なことになります。方向を定めて確立しなければなりません。そうした方向の設定を必要とした自体の位置で、自らの完全なる定着地を備えるべきです。不動の位置で私が作用し始めたら、その不動の位置に従って自分の体が動き始め、姿勢が変わり始めるのです。「私」というものの、原則的で本来的な、自分の概念に一致しうる自分を発見する現象が起こり始めます。これは深刻な問題です。(一二七・九八)

本来の「私」というものは、理想圏に立つことのできる「私」というものは、どんな存在か? 周辺から生活にある脅威を受け、生活苦にあえぎつつ、死ぬか生きるかと呻吟する「私」ではありません。本来神様の愛の圏内で一体となっていたら、堕落の無かったその理想世界は、わずかな期間で物我の世界、神様の家庭の理想形を成して、その家庭から愛を中心とした氏族編成、民族編成、国家編成が成されるようになるのです。(一四五・三一二)

2 自分の価値

世界でこの上なく貴いものは何でしょうか? 金銀宝物でもなく、この世の名誉や権力でもありません。天地の間で最も貴いものは何かというとき、それは自分自身、まさに自分自身なのです。

ところが自分自身が貴いということを何をもって保障するのかと問うとき、答えることができないのです。人々は、自ら身につけるべき内容を備えられずとも、心では満天下の前に自分自身を最高の価値ある存在として認めさせたいと願います。それが人間の本性です。今日、民族のため、あるいは世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を他の人がどれだけ貴く思うかということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発をすることができないということを憂慮せざるをえません。

私たち自身は、どれほど価値ある内容を持った存在でしょうか? 皆さんはそれを考えてみましたか? 私がこの宇宙において一つしかない宝、真なる宝となったなら、その宝は、神様も慕うのであり、生まれては亡くなられたイエス様も慕うのであり、今日までこの世に現れた多くの聖徒たち、歴代にいくら身を立て、歴史において伝統的思想を残した者がいたとしても、彼もやはりその宝を慕うでしょう。過去においてのみならず、現世に生きる万民も慕うでしょう。その価値に憧憬するでしょう。今だけに限らず、未来においてもそうなるでしょう。ところで、今までは、そのような宝が自分自身だということが分からなかったのです。

では、現在の時点で、もう一度自分自身を振り返ってみるとき、果たして私自身は貴い存在か? 自分がどれほど貴い存在かというとき、皆さんはどれほど貴いですか? 一人の男性なら男性についてみるとき、その前後左右には、妻がいて、子供がいて、父母がいて、親戚がいます。親戚を連結させて民族と国家に、国家を連結させて世界の中に同参するようになった自分の存在というものは、どれほど貴い存在でしょうか?(一七・一三)

皆さんの血には、縦的な神様の血が入っているべきであり、横的な真の父母の血が入っているべきです。それが一つとなり、愛で同化された中で生まれたのが皆さんの生命です。それゆえ、皆さんの生命は、統一的な心情圏内にあるのです。統一の核の根を中心として、生命の起源を共に相続して生まれたのが「私」だということです。(一八一・三〇四)