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二 私たちはどこへ行くべきか

今、私たちは、知ろうが知るまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動いている時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、更には天と地までも、ある所に向かって今も進んでいるのです。これは否定できない事実です。

この一生を経た後に、私はどんなところに行くのでしょうか? これは、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこうした運勢にとりまかれて引っぱられていっていることを否定はできないのです。

では、どちらにしても行かねばならない私自身であるからには、この身はどこに行こうとしているのか? この心はどこに行こうとしているのか? また、この生命はどこに向かって傾いており、自分の心情はどこに向かっており、自分の願い、あるいは希望と理念はどこに行こうとしているのか? この問題を解決できないとしても、私たちは結局は行くべき運命に置かれているのです。私たちが人生を終えて死ぬ日には、体は土に埋められて終わります。では、体が埋められるその日に、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも、共に埋められてしまうのか? 消えて去ってしまうか?ここに、はっきりした内容と、解決点と、目的観を立てておかない限り、これは不幸な人とならざるをえないのです。

ですから、行く歩みをつかまえておいて、動く心と傾こうとする心情をふさいでおいて、「おまえはどこに行くのか?」こう尋ねてみて、これを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは多くの道主たちであったということを私たちは知るようになります。彼らはそれを解決するために現れましたが、今日まで「私の体はこういう所に行き、私の心と心情、生命と理念は、こういう所に向かって走れリ。ゆえに天下すべての万民、あるいは天地に存在するあらゆる存在物はここに行け。」と、自信を持って命令した人はいなかったのです。(八・一九四)

では、私たちは何を中心として生まれ、何を中心として、あるいは又、何を目的として行くべきなのか? これは、神様を抜きにしては絶対だめなのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁となるのです。動機を持てない人は、どんな仕事を成就しようとしても結果を収めることができず、価値を認められません。ある建物を建てるときには、設計者が設計した設計図に従って建築をします。設計の原本も無しに建てられた建築物は、設計者が目的とした建物とはなりえません。(二一・一〇〇)

では、私たちはどこに行くべきなのか? 死線を越えても行くべきところはどこなのか?神様を探して、その神様に侍って、心嬉しく喜べる日、私の心情世界において、「これ以上の望みはありません。」といえるひとときを迎えなければなりません。そのために私たちは、困難に耐え、無念さに耐え、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。こうした世界を越えていく自分になれない限り、世界とともに消えていくことでしょう。(八・二〇二)

さあ、こうして人はどこへ行くのか? 天国へ。こうなっています。天使はどこへ行くのか? 天国へ。お父さんお母さんはどこへ行くのか? 天国へ。それだけでなく、飼っていた小犬はどこへ? 地獄へ行くのではありません。

昔、北朝鮮から避難するとき、かなり富裕なお金持ちの家で、相当高価な犬だと何やら自慢していたその犬を、避難するというから、しっかり門に縛りつけておいて、「おい、元気でな。私だけ行って来るからな。」と、言うのです。統一教会員たちは、そうであってはいけません。今は犬も天国に、すべての万物も天国に、主人が行くところにどこへでもついていくことができるのです。(七八・三三六)

人はどこへ行くのか? 霊界に向かっていくのです。霊界は、海と同じようなものです。どちらにしても行かなければなりません。そこには、海にも流れがあるのと同様に、造化無双の変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水には無い造化の展開が見られます。海に多くの魚類が存在するように、霊界には、多くの新しい天地家庭が存在します。同じことです。あの世に行ってみれば、同じなのです。(一四一・三〇六)