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三 人生と時

この地上に存在する、あらゆる存在物のうち、無駄なものはひとつもありません。目的なく存在するものはない、ということです。すべての存在物は、それぞれある目的を持っており、その目的が成されるときまで、過程的、即ち時間的距離を経て進んでいくのです。その期間は、一日に及ぶ場合もあるし、一年、十年、あるいは一生をかけて進んでいく場合もあります。例として、国家について考えてみると、国家は、数世紀、数千年の歴史にわたりひとつの目的である善に向かって走っているといえます。このように、あらゆる存在は、それ自体が存在するための目的の基台に向かって走っています。

私たち人間について考えてみると、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代、老年時代があります。少年時代は青年時代と違い、青年時代は壮年時代と違い、壮年時代は老年時代と違います。また、その時代、時代を生きていく自分自身にふさわしい責任と使命があるものです。従って、少年時代になすべき使命を全うできなければ、青年時代を力いっぱい迎えることができず、青年時代の使命を全うしなければ、壮年時代を力いっぱい迎えられません。また、壮年時代の使命を全うできなければ、老年時代を力いっぱい迎えられないのです。

このように、人間の一生においても、その時その時に与えられる使命を全うできるかできないかによって、自分の後世、すなわち将来迫りくる目的基準をなすにおいて、自分たちが責任を果たすか果たさないかという問題が左右されるということが分かるのです。(二四・二一一)

よく世間では、「いくら英雄といっても時を迎えなければ 志を遂げられない。」という話を往々にして聞きます。時が準備された土台の上に人材が現れれば、その人材と時が合わさり、一つの新しい歴史が創り出されるという事実を、私たちは歴史を通してよく知っています。それゆえ、いつにおいても、時というものが問題となるわけです。

朝が来れば、起きて朝ご飯を食べ、仕事にとりかかります。そして昼になれば昼ご飯を食べなければなりません。昼食をすませて午後の仕事にとりかかります。また、夕方になれば、夕飯を食べて夜を迎えます。このように、私たちの生活というものは、規則的な時というものを中心として、新しく移り変わる環境を迎えつつ進行しています。

私たち個人について見ても、少年時代があるかと思えば青年時代があり、青年時代が過ぎれば壮年時代、壮年時代が過ぎれば老年時代がやってくるのです。こうした過程を経て、ひとつの人生を終えるようになるのです。一生というものは常に一定ではありません。少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、時を間違って迎えるならば、かえって生まれなかった方が良いところだったという結果をもたらしてしまいます。

しかし、少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、もし一生を、時を正しく迎えて有意義に生きるならば、その人の一生は、最も価値あるものとして残りうるのです。ですから、時を間違って迎えれば、そこから失敗の動機が出発するのであり、時を正しく迎えれば、そこから成功が出発するという事実は、私たちの日常生活において、よく分かるのです。(五七・二八七)