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三 本来神様の愛によって生まれた人間

生まれたのはなぜなのかという問題、神様はなぜ人間を創り、天地万物を創られたのかという問題、その結論は簡単です。神様も、愛する対象が必要であるため、愛の対象として人間を創造されたのです。分かりましたか? 皆さんは今、「とるに足らない私のような存在は、いてもいなくても関係ない。」と考えていますね? そのように考えてはいけません。

神様の愛が対象となる場合には、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であればこそ、優れていようが愚かであろうが愛するのです。病身の子を持つ親の心情が、子供以上につらいのと同様に、天地の中心であられる神様の愛の心情は、皆さんが優れている、いないということを超越しているのです。本性の愛の基盤を備えているかいないかが重要です。それゆえ、自分はなぜ創造され、宇宙はなぜ創造されたのかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために創られたという事実を知るべきです。(一三〇・四四)

神様の息子という言葉は、何を中心としていう言葉ですか? 息子というものは何でしょうか? 息子とは何ですか? 息子とは? どういうものが息子でしょうか? 息子というのは、神様の愛の中で見いだすべきです。愛の中から始まり、神様のすべての属性に似て、すべての性禀全体に似た、そういう存在をいうのです。それゆえ、息子となるためには、どんなことをすべきでしょうか?

生まれるにおいて、何によって生まれたかといえば、神様の愛によって生まれたのです。愛に根を置いて生まれた、神様の息子なのです。そうでしょう? 理致的に見るとき、なにがしの息子といえば、そのなにがしの息子とは何でしょうか? その息子というのは一体何かということです。父の愛の中で生まれたということです。父母とは、愛の中で自分を生んでくださった方です。(一四四・二三二)

神様はなぜ天地万物を創られ、神様は自分をなぜ創られたのでしょうか? 何のために創られたか? 愛のためです。自分はなぜ生まれたのでしょうか? 神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたということです。「神様とともに自分の家庭で愛することのできる人だ、神様とともに自分の社会で愛することのできる人だ、神様とともに自分の国家で愛することのできる人だ、神様とともに自分の世界で愛することのできる人だ。」と言える人になるために、神様の愛の中で生きるべきなのです。(九七・二六六)