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本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母ならば父母自身が、このような子供を生もうという計画のもとに生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないということです。
神の摂理を中心として、私たちが存在するようになった根源を掘り進めてみれば、人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心に流れてきた歴史と関係する重大な責任を担ったひとつの生命体として、地上に送られたと見る以外にありません。
では、人間が神様の摂理的なみ旨と、歴史的経倫に関係を持って生まれたということを考えてみるとき、人間というのは現実に置かれているそれ自体にとどまってはいません。皆さんがいわゆる二〇代の青年ならば、二〇代の青年のままとどまってはいないということです。私たちは、こうした歴史を断定することができ、このような摂理を代身しうる実体であることに間違い無いという事実を感じるべきです。それゆえ、歴史過程にある自分自身、その中に生きている私たち個体がいくら小さいといっても、ひとつの個体として終わるのではないのです。(三四・一五五)
人間は生まれるとき、自分が生まれたいという意識があって生まれたのではありません。意識がある前に、神様の力によって生まれたのです。ですから発展も、それ自体の意識基盤から始まるものではありません。自分自身を忘却する場、意識以前の作用による結果が確かなものとなるその場から、やり甲斐と価値に満ちた、自分自体の形成が始まるのです。言い換えれば、自分の意識に先立って、神様が先ず存在しうる動機の基盤が因縁づけられることによって、よりよい自分自体が形成されるということです。(三六・一〇三)
人間自体、自分が生まれたこと、自分を主張できる起源はどこにあるのでしょうか? 人間自体を主張できる起源が民主主義ですか? 民主主義は流れて行くのです。この大宇宙の原則の前に、人間を主張できる起源をどこに見いだすべきでしょうか? 私たち人間は、結果的な存在として生まれたのに、結果的存在でありながら原因を知らずして自分を主張する人、そういう人たちは気がおかしいのであり、みんな狂人なのです、狂人。(八三・一九一)
皆さんはどのみち生まれたからには生きなければならず、生きては死んでいかなければなりません。初めから、生まれることを宣布して生まれたわけではなく、生きるにおいても生きると宣布して生きるのではありません。人間が、何か価値あるものを持って生まれたのならば、そういう生活をしてからあの世へ行くべきです。またそういう生涯を送らなければなりません。
厳粛な場から自分が来たので、厳粛な場で自分が生き、厳粛な場に逝くべきです。それは、だれかが指図したからそうなのではありません。自然な因縁から出発して、自然な因縁の道を行くべきなのです。ところが、不自然に生まれて、不自然な場で生き、不自然な所に行くようになります。このように生きて良いのでしょうか? いけません。(一二・一〇)