P.18 |
第一節 人生の諸問題
一 人生とは何か
1 今日まで迷路のようだった人生の諸問題
今日までの哲学は、歴史を通じて、人生の諸問題を解決するために苦心してきました。真なる人間の価値、人間はどのようにしたら完成することができ、どのようにしたら人間自体の位置から勝利して、宇宙万象に誇れる勝利の完成格と成りえるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが現れては悩みつつ、ありとあらゆる主張をし尽くしてきました。そのようにして、今日に至っては、人間を通じての思想体系に立脚した主義、主張のすべては、すでに実験済みとなり、落第してしまいました。皆脱落してしまったのです。(一四一・一二五)
なぜ人間はこうして浮世を渡りつつ死を忌み嫌いながら、なぜ生きなければならないのか? 根源はどのようになっているのか? 皆さん、疑問が多いことでしょう。その疑問のすべては、人間の手による哲学書を通しては解決できません。哲学というものは、今日まで神様を探していく道を開発してきました。宗教というものがそうです。宗教とは何か? 神様を知って、神様とともに生きることから始まるのが、宗教生活です。(一八六・一二)
よく世間では「ああ! 人生とは何だろう、人生とは?」と言う声を聞きます。このように私たち人間は、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、更には宇宙観の確立、神観の確立が問題となります。これがどうなっているかということです。系統的段階をどこに置くのか、その次元的な系統をどのように連結させるかということが、最も深刻な問題です。(七五・三二四)
統一教会の信徒は、世間一般の人々とは違います。私たちはみ旨を中心として、死後の世界、すなわち未来に対する確信を持っており、そのことを細胞で直接体感しています。
今まで、この世界に生まれては去って行った数多くの人間たちや、み旨を抱いて歴史上に現れては去って行った数多くの聖人賢哲は、人間がどこから来て、どこへ行くのかという問題に取り組んで、一生の間全力を尽くして努力しましたが、その解決点を探し出せないまま去っていきました。(三三・七)
2 動機と目的が分からない人生
人々はよく、人間は生まれては去っていくものだといいます。昔から今に至るまで、どんなに偉大な聖賢君子も、この世に生まれそして去っていきました。こうした歴史の動き、こうした天倫の動きが、今この瞬間の私にも連続されているということを皆さんは考えてみなければなりません。生まれては去って行かなければならない私たち自身です。どういう因縁と関係によるのかは分かりませんが、この地に生まれ、万象あるいは、ある理念的形態の中で、繰り返していくことが事実だということをよく知っています。
それでは私たち人間は何のために生まれ、何を目的として行くのでしょうか? このことを、数多くの哲人、あるいは数多くの宗教人たちが、心血を注いで解決しようとしましたが、解決できないまま、それに因る悲しみとともに、今日までの人類歴史は動いて来ました。そして今も動き続けているのです。
こういう緊張の瞬間にある私たちです。行きたくなくとも、行かざるをえない人生行路を歩んでいる私たちである、ということは否定できないでしょう。父母の血統を通して生まれてみると、思いもよらなかった世界で生きているのです。また、生きてみると、年老いて死んでいく運命に置かれるようになります。どんなに偉大な人であっても、花のような青春時代が過ぎてしまうのをどうすることもできないのです。自分が老いてゆく姿を防ごうとしても防ぐことができないという、もの悲しい事実を、私たちは知っています。
考えれば考えるほどやるせなく、考えれば考えるほどカラカラになり、考えれば考えるほど四方をめちゃくちゃにしたい衝動にかられるのを、皆さんは生涯の路程において、何度も感じたことでしょう。
私はどうしてこの世に生まれ、私は何のために生きるべきであり、どこへ行くべきか? 皆さんがこの世に誕生したことを、ひとりでに生まれたものと考えてはいけません。誕生はしたものの、どんな動機から生まれ、何のために生まれたのか、私を誕生させた動機と目的を知らない私たちです。この世に生まれて来たものの、自分が生まれようとして生まれたわけではなく、生きてはいるものの、自分が生きようとして生きているわけではなく、死ぬにしても、自分が死のうとして死ぬわけではありません。
それなのに、そんな自分をして何を誇ろうというのですか? 自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身の何かを持って生きることもできず、死の道を避けることもできない自分をして何を誇ろうというのか、それは侘しいだけです。生まれたから、生きていかねばならない運命なのであり、また、生きては死んで行く運命なのです。
それでは、このように生きて、そして死んで行く目的は何なのでしょう? 皆さんはこの問題をもう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではないのだから、目的も私のみのものではないに違いありません。生きるにおいて幸福な位置を嫌がる者がどこにおり、豪華絢爛たる位置で生きたくない者が、どこにいるでしょうか? しかしながら、思いどおりにできないのが、私自身です。にもかかわらず、自分自身を誇りたく、思いどおりに生きたく、好きなだけ生き続けたいと願う私自身でもあります。
自分を原因として生まれた自分ではないのに、より大きな何かを求め、もっと豊かに生きることを望み、より大きな目的の価値を要求しようとするのは、自分によるものなのか、そうでなければ、何らかの相対的な目的によるものなのかということを、皆さん自身、はっきり知らなければなりません。手を挙げて、自分によるものだといえる人は、いないことでしょう。父母の血肉を受けて生まれるとき、自分から生まれたくて生まれましたか? 父母が私を生みはしましたが、私という存在は父母が思いどおりにすることのできない生命体であり、思いどおりに、引っ張っていけない生命体であり、思いどおりに殺すこともできなければ、生かすこともできない生命体なのです。
そのような権限は、だれが持っているのか? その権限の所有者を解き明かすようになれば、自分を中心として喜びにひたることができることでしょう。ところで今日の人間たちは、この基準を越えられずにあえいでいます。このような存在が私たちであることを知らなければなりません。
それゆえに私たちは、心の内でより大きな何かを追求しているのです。また、一生を通して死亡の権限を押し退け、実際に、より偉大な驚くべき生命の世界と因縁を結びたいと思うのです。更に進んでは、何らかの情的な愛の心情が存在し、人間の情的世界を越えて、永遠不変な情的世界に触れようとします。解明したり証明することはできなくとも、そのような感覚に常に私が引かれているのです。良心が清ければ清い人であるほど、その何かが、この矛盾した世界に逆らうように促しているのを感じることでしょう。(七・一七八)
私たちは、結局は死へと向かいつつあります。それなのに、目的も無く行くとしたら、それはこの上なく悲惨なことです。皆さん、砂漠地帯を行くときは、いくらまっすぐ行こうとしても大きく曲がってしまいます。ある人はこんなに曲がって…、大きく曲がるということです。なぜそうなるかというと、このように歩きはしても両足の歩幅が同じではありません。それで、小さな差であっても長い間歩いてみれば、すでに曲がっているのです。左足の歩幅が少しでも大きければ、そのように曲がって行くのです。
皆さん、海や湖でボ・トをこいでごらんなさい。ボ・トをこいでみると、必ず三角形に…。私がここからあそこまで行くというときには、必ず三点を合わせなければなりません。この場からあそこまで行こうとすれば、必ずこれと合わせなければならないのです。ところが、艪をこいでみると、くねくね進みます。
このように見るとき、「私」という存在が、今生きていて、歩んではいても、これがどこに行くのか安心はできないということです。ですから、出発点と目的点を真っ直ぐに見ながら、この三点を調整して合わせていく操作をして行かなければならないわけです。そうすれば、直線に近い距離で通過することでしょう。これは理論的に妥当なことです。(八九・一六四)
3 失われた自分を取り戻さなければ
心は自然の道理に符合しています。善の方向に限り無く向かって動こうとします。それは、磁石が南北を示すのと同じです。自然の道理には、方向を失い、善から遠ざかるということはありえません。そういう現象は無いのです。人間の心もまた、何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を分別する心、全体と和合したい心、ある全体的理念に秀でて生きたい心、この心を拠り所として、天が逃避の方向を指示できるということを、はっきり知るべきです。
皆さんは自分自身を取り戻さなければなりません。今日ここに参加した皆さんは、自分自身がどのような立場にあって、どんな姿をしているのか、心の基準をしっかり定めて分析してみるべきです。心はしきりに催促するのに、どういうわけかカラカラになり、何かしら恐怖に威圧されるのを感じるようになります。それゆえに、私がこんな所にいてはいけないということが、自然な現象としても感じられてきますが、それだけでなく、目に入ってくるすべての物象を通しても作用してくるのです。ですから、皆さんはこうしたことを通しても、自分自身がどんな姿でどんな立場に置かれているかということを知らなければなりません。
もし、偶然に皆さんの霊眼が開けるようになれば、数千年前に生まれて去っていった数多くの道人たちが、万人を前にして声高に叫んでいるのを見ることでしょう。今日、皆さんの横では、多くの霊人たちが全速力で走っています。そうしながら「おい、一緒に行こう、怨讐が来る」と言って悟らせようとしているのに、皆さんの耳は、そのような声を聞くこともできず、目は見ることもできず、体は感覚することもできないという哀れな姿です。これ以上嘆かわしいことはありません。これは、自分一身だけで嘆くことではありません。こうしたことは、存在の価値を全体的な理念世界と連結させようとする天倫の前にあって、受入れ難い罪となるのです。(七・一八二)
4 神様が存在するのならば、指導方法が現れるべき
この地上に生きている人のうち、善なる人だといえる人は一人もいません。この世に生まれてみると、善なる種子ではなく悪なる種子だったのです。生まれたみたら、再創造の理念の前に立ちえ、何らかの価値をたたえることのできる存在ではなかったのです。自分の姿が、不肖な姿、不備な姿、不完全な姿、不足な姿であることを否定できないことでしょう。このような人間の姿を、キリスト教では、堕落した姿として規定しています。
人間の本心は、堕落世界で楽しく暮らそうとは思いません。そうして人間は六千年間この道を避けに避けて来ましたが、未だに完全に避けたという基準を立てられずにいるという事実を知らなければなりません。
今日私たちが、悪を避け、善を指向しながら、何らかの目的に向かって進んで行くことが、いわゆる人生行路だといえます。今日も、明日も、死んでさえも、悪を除去して善にしがみつこうという目的のもとで、悪の環境を避けて行く路程が人生行路であるということです。
それゆえ、皆さんの心は恐怖におののいています。心の本郷をめざして動くときは、そうではありませんが、悪に偏った場に立つようになるときには、あたかも何者かが、私を促えているような恐ろしさを感じるのです。これは、私たちが、罪悪史、あるいは死の権限といった暗黒の勢力から本心を避けて行くためであるという事実を、私たちは、はっきり記憶しなければなりません。私たちは逃避の路程にあります。神様がいらっしゃるというからには、この逃避者たちをどのようになさることか? 悪から逃避して行かなければならない世界人類をどのように指導なさることか? 神様が存在するならば、その指導方法が現れるべきです。(七・一八〇)