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今日地上には、四〇億の人類が暮らしていますが、霊界には数千億の霊人たちが暮らしています。それゆえ、地上のこの世界と、我々が眺める主体となる霊界が、どのようにつながっているかというのが問題です。これが、今日我々が貴く思う物質を中心としてつながっているか、あるいは知識を中心としてつながっているか、そうでなければ、権力構造、我々が地上で重要視するそのような内容を中心としてつながっているか? それはそうすることができないのです。
なぜそうかと言えば、あの世界は物質世界を超越した世界であるからです。あの世界は、知識の世界を超越した世界です。時空を超越している世界であるために、昨日の喜びが今日の喜びになりえ、今日の喜びが明日の喜びになりうる世界です。
このように見るとき、その本質の世界は、今日二元世界に暮らしている我々が必要とする、重要視するそのような内容を中心として動かないのです。では、それが何か? 霊界の生活のすべての価値的な中心が何か? これが重要なのです。
霊界に暮らす人たちは、各個人が霊界の社会に属しています。霊界にも人間世界と同様に、霊界の家庭があり、一族がいて、一つの国があり、その次には世界がつながっています。
今日、地上に暮らしているすべての人は、好きでも嫌いでも、誰を問わず全部帰ってとどまる所が霊界です。それを一度考えてみなさい。そこには未開人から文明人まで、歴史時代に生まれて死んだ千態万象の人間の群像が集結しているのです。
では、今までの人類歴史が、平和を中心とした人類歴史になれず、幸福を中心とした人類歴史になれず、理想を中心とした人類歴史になれなかったなら、霊界に行っている人たちは、どのようになるだろうか? それが気掛かりなことです。どのように治められるのか? ここでそのように暮らした人が、あの世界に行って突然変わることはできません。三つ子の魂百までもという言葉があるでしょう? 生まれ持った性格は直しにくいのです。
このように見るとき、あの世に行っている霊人体たちは、今日我々が今まで暮らしたのと、特別に違うのか? 突然変わるだろうか? そうすることができないのです。ここで暮らしたその形そのままで収穫されて行くのです。
霊界に行っているすべての霊人体たちは、結局は地上に暮らしていた人たちの霊人体です。そのように見るようになれば、今日この人たちが暮らしている世の中と、別に違いのない世界なのです。(一四一\二六八)
霊界は、今まで数多くの部類の歴史を持っているのです。ところで、この霊人たちは、思い通りにここに来て働くことができないのです。これぐらい働くことができないのです。ふさがっているのです。
それで、再臨するには宗教で橋をかけなければ、特定の人以外には、再臨することができないのです。ユダヤ教の中にも派閥が生じたのです。ですから、ここから出発するなら、このように行って、このように行って、このようにつながるのです。(板書される)霊界から下りてくるとき、その主流が直線ではだめなのです。ユダヤ教の互いに違う系統が、精誠を尽くすようになれば、その主流が移って、行ったり来たりするのです。
それゆえ、霊界にいる人が下りてくるには、直線に該当する人以外には下りて来れないのです。再臨役事の協助ができないのです。そうして、一世紀になれば、またその人も霊界に行くのです。霊界に行って、この次の時代に来るには、やはりこのような原則で下りてくるのですが、ここに特定の霊人たち以外には下りて来れないのです。
そうすると、霊界の塀はだんだん、だんだん多くなるのです。だんだんもっと複雑になるのです。その次の世代が全部霊界に行くのです。それで、だんだんこれが大きくなるのです。これが全部壁です。今の時は、世界的時代なのです。どれほど複雑か考えてみなさい、どれほど複雑か。ここでこれを探してくるには、どれほど回り回って来なければならないかを考えてみなさい。それゆえ、時になっては、塀を崩さなければならないのです。
霊界においてですね、主流、すなわちこのように(絵を描かれながら語られる)下りて来る道と、このように入ってくる道を作っておこうというのです。ここに行った側は、ここに来れないのです。分かりますか? このことを統一教会がするのです。(一〇二\二九)
今まで霊界に行った、全部分かれている霊人たちが…。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。(二一八\一二五)