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1)地上人と霊人
この世界は、悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねてこなければならないのです。皆さんは、いつ死ぬか分からないではないですか? 誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来することができる基盤を、地に築いて行かなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思い通りに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国がなされて暮らすようになるのです。
霊界に行ってから、来ることができなければいけないのです。地上に天国をなせなければ、来ることができないのです。地上に来れないのです。これが妄想ではありません。そのようになっているのです。分かりますか? 永遠について、しなければならないのです。先祖たちが、全部責任分担と蕩減条件に引っかかって、霊界に行って行く道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんが残してはいけないのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこに皆引っかかるのです。どうするつもりですか?(一四六\二二三)
ところで、宗教として行くべき道、あるいは、一般の世界が行くべき道においては、互いに塀でふさがっているのです。どのように不信者が信仰する人と和解することができ、また信仰する人が、どのように世紀末時代に来て和合することができるでしょうか? これを解決しなくては、人類は二股に分かれて、新しい一つの世界に入れないようになっているのです。
もし、二股が一つの世界に入っていくことができるというなら、その世界が二股の世界の結果をもたらすようになるのに、それは絶対的な神様において考えること、理想とするものになりえません。一つであるしかない神様の理想世界に、二つとも到達することができないと見るのです。それゆえ、問題は今日、多事多端な世界的事件が、問題解決の焦点ではなく、自分自体の体と心をどのように一つにして、目的に向かってジャンプすることができる自分自身を発見するかということです。このような問題が引っかかっているのです。お分かりですか?
宗教と世界統合を、自分自身から探さなければならないという観点で見るとき、今日統一教会は、何をする教会かという問題がここに台頭するのです。統一教会は、宗教だけのための宗教ではありません。統一教会は、この世と一致和解して、宗教的活動基盤が、今日、社会的活動基盤に同伴することができる道を探していくべきであり、また、世の中が宗教分野の道を探していくことができ、これが一つになりうる道を模索しなければなりません。ここには、大きな塀が横たわっているのです。問題が宗教と社会が一つになるにおいて、個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に、霊界まで塀で妨げているのです。これを知るべきです。
この塀をどこから壊すかというのです。故障はどこからするか? 世界の果てでするのです。個人でします。個人が、自分を中心として故障する結果、どのようになったか? 体と心が分かれました。体と心が分かれて、いく筋も指向する、自分なりの目的を持って行くようになる結果になったのです。ここから問題となるのは何か? 目的をどのように一つに帰一させるかという問題、その次には、分かれた体と心をどのように一つにつなげるかという問題があります。
ここで神様とサタンがいるとするなら、神様とサタンが働いています。神様は、今まで人間を救うための復帰摂理をしてこられ、人間を救うための求道の摂理を指導してきています。それに反して、サタンは、神様の摂理に反対してきている、このようになります。善側の神様は、摂理の方向において、一つの理想世界を目的として、毎日毎日より分けていきながら、その目的に接近することができる道を推進させていく反面、悪神のサタンは、そちらに行ってはいけないと言いながら、反対の道に変えているのです。
一つの境界線、一つの塀を中心として、神様は「塀を越えるな、おまえは右に行かなければならない」と言いながら変えており、サタンは「おまえは左に行かなければならない」と言いながら変えているのです。それで分かれるのです。右に行くための人間の出発が実を結んだのが、右を代表したのが右翼であり、左に行けというのを世界的に展開させておいたが左翼です。この左翼と右翼の世紀末的な歴史時代に対するようになる時が今です。この右翼と左翼は、心と体が戦う結果を表したものです、このようになっています。
では、これをどのように一つにするか? これが問題です。世界が一つになり、国家が一つになり、氏族が一つになり、家庭が一つになって、個人が一つになるか? 違います。出発をどこからしなければならないかというと、個人からしなければなりません。ですから、この世界をただ置いて、急がなければならない問題は、個人から一つにする運動をしなければならないのです。それで、宗教の中で現実がつながり、現実の中で宗教がつながって、互いが否定することのできない自分自身を発見しなければなりません。
ところで、ここで問題となるのが何かというと、悪神が体を支配しているのです。悪神の根は自分の体を中心としており、先生の根は自分の心を中心としてあるのです。それで、唯物史観と唯心史観に分かれるのです。世の中の言葉は、ただ出てくるのではありません。その時代的時となってくるのに従い、罪人は罪人であることを、ありのままに告げなければならないようになっているのです。「私はこうだ」という事実をありのままに告げなければなりません。我々人間たちが、世界的舞台を中心として一つになるか、できないかという結果的事実は、善神と悪神が世界の基準で証すのです。自分がそこに包括されており、包容されているために、それを測定して感じられないだけであって、善神と悪神はそのような立場で、世界舞台で戦っているのです。(一四五\一五)