P.181 |
皆さん、霊界の神様の前に行くときに、持っていくことができる贈り物が何ですか? 何もありません。お金でもなく、この地上の学士・博士の名誉でもなく、自分の愛する夫が良く、豊かに暮らし、そのようなことではありません。そのようなものは贈り物になれないというのです。ほかでもありません。そこには世界のため、神様のための愛を持って行かなければなりません。それが残るのです。ヨハネの福音書三章一六節にこのように記録されていましたっけ?「神はこの世をこれほどまでに愛され…。」そこに神様が世の中を愛すると言いましたか、皆さん個人を愛すると言いましたか?(世の中です)。統一教会と言いましたか、世の中だと言いましたか?(世の中です)。世の中を愛すると言いました。それで、一人子を与えました。一人子は、世の中を愛するために来た人です。
それゆえ、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないということなのです。キリスト教は今どうですか? キリスト教は、教派の名で全部離れていきました。そうではないですか? 世界がどうで、神様がどうでということは考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺めるとき、我々は教派を越えて、国を越えて、世界を愛し、神様を愛さなければならないというのです。(九八\三二九)
法廷でも、いくら殺人強盗だとしても、証拠物がないときは、判事もしかたありません。強盗が「私が殺人したのをいつ見たか?」と立ち上がれば、しかたないのです。しかしながら、証拠を突きつければびくともできません。証拠がなければ証拠を探さなければなりません。讃美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか? 証拠をもらったといばって伝道に出るのに、そのようなことが証拠だと思いますか? そんな証拠をして何をしますか? 残る人もいないのに、何の関係もないということです。
皆さんは、天国に行くときに贈り物を包んで行くことがありますか? 霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんが包んで行った風呂敷を開いておくことができるでしょうか? 皆さん、一度考えてみてください。乞食の足に巻く布のようなものを開いておくことができるでしょうか? 統一教会がどんな苦労をして、皆さんがどんな苦労をしましたか? 国のために、世界のためにすると言いながら、それほどの苦労もしないで、どのように国のため、世界のためだと言うでしょうか?「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません。」それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って風呂敷を解いておいて「これは一生の間私が用意した贈り物でございますので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女たちが嫁に行くときは、一包みずつ包んでいきながら、天国に行くときはぶらぶらと体だけ行くことができますか?
皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか? 皆さんは、神様の精兵として、神様の息子娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏内で、使命を賦与された人たちであるということを忘れてはいけません。
皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値の結果としてなされた成果を万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意を持たなければなりません。これが任命された者の責任なのです。その責任を果たせなければ、乞食よりもっとかわいそうになります。乞食たちは時が来れば、もらってでもご飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせてご飯も食べられないのです。
このような責任を完遂するのに、神様が一〇年間にしろと言ったなら、その一〇年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰させてくるその期間を、どのように短縮させるか? 神様が計画した一〇年という期間を、七年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で、世界的な版図を吸収することができないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を持って行く人たちにならなければなりません。
今日、世界を中心として、そのような時代が来たのです。すでに基礎を築いて、外部工事は皆終わり、今は装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なものであるために、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係しうる内容を中心として、必要なすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
それゆえ、自分の生涯を中心として、時期に合わせて計画していかなければなりません。準備時代にはあらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾を誰が見てもその精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けていると言われなければなりません。
そのために、皆さんはみ旨の生活において、準備時代が来るとき、準備しろという任命を受けても準備できなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。そのときは、休まず継続して実践をしなければなりません。その次には、成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期です。(三二\七一)