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1)審判の種類
怨讐を愛さなくては、行くことができない道が原理の道であるということをご存知の神様が、終わりの日に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか? 違います。神様は、人間たちに対しては、父母の立場なのです。今日、キリスト教で言う、いわゆる火の審判というものは、言葉そのままの火の審判ではないのです。(三一\一六七)
皆さんもよく分かるでしょうが、師弟の間にも、先生なら先生が守るべき法があり、弟子なら弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも統一教会の先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるということを知るべきです。先生が話すのに、居眠りする人たちは、その天法に引っかかる人たちですか、引っかからない人たちですか?(引っかかる人です)。そうですか? 居眠りする人、そうですか?(そうです)。皆さん、そのようなことを考えて居眠りしましたか、考えられずに居眠りしましたか?(……)。ん? 居眠りするのに、知って居眠りしますか、知らずに居眠りしますか?(知らずに居眠りします)。それを知るべきなのです。
それで、ここから見るとき、これが何かというと、み言に対する審判を、皆さんが受けるということです。み言を過って聞けば、審判するのです。
その次には、実体をなすのです。皆さんの活動は何か? 実体をなすことです。何をしていくのか? 実体をなしていくのです。実体をなすべきなのに、この実体をなす活動ができないときは、実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体審判があり、心情審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。
まず、原理のみ言が皆さんを審判するのです。原理のみ言が皆さんを審判するというのです。その次には何か? 実体審判をするのです。誰が? ファンダレージングをし、伝道を熱心にし、すべての法度を守り、実体をなしたその人たちが、皆さんを審判するのです。ファンダレージングをしないで、何をしないで、何をしないで、何をしないで、さぼっていい加減なことをして、こそこそ避けて回る人たちを、全部そのようにした人たちが審判するのです。それが審判なのです。サタンも審判するのです。サタンまでも、み言どおりにしろということをしないときは、審判するのです。他人が、全部実体が讒訴するのです。実体が讒訴するのです。統一教会の信徒たちは、先生の実体が讒訴し、統一教会の幹部たちの実体が讒訴し、統一教会のみ旨に従ってきた人たちが、全部讒訴するのです。審判するのです。
その順序がこうです。第一は、サタンが讒訴し、第二は、食口が讒訴し、第三は、先生が讒訴し、第四は、天使たちが讒訴し、第五には、神様が讒訴するのです。(板書されながら語られる)何の話か分かりますか?
皆さんは、どのように行くべきかというと、サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です、行くべき道。行くべき道なのです。それが法です、法。そのように行くのが方向です、方向。さっき言った方向なのです。
これが何をするのだって? 何の審判をするって? これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判なのです。うそが通じますか?(いいえ)。仕方なくするのは、しないのと同じです。しないのと同じなのです。神様を思いながら、先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じようにです。このように、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身になるのです。皆さん、そうですか?
そうして、統一教会員は、神様と先生と食口たちが、歓迎しうる人になるべきです。そのような人になるべきなのです。それで、皆さんは、むいてみれば、その栗の実のようでなければなりません。我々は、神様のために、真の父母のためになるというのです。そのような仕事をするのです。その次に、霊界に行って、神様のために、真の父母を中心としてする生活が、ここで拍子が合わなければなりません。拍子が合わなければならないのです。分かりますか、何の話しか? それでこそハーモナイゼイション(harmonization:調和)するのです。
それゆえ、恐ろしい実体試験をする、実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です、法。このようになる場合には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道し、ファンダレージングし、苦労するのに、なぜ悪口を言われて迫害されるのか? それは、皆さんが心情がないから、心情を探すためです。愛を探すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためなのです。皆さんがこのような訓練過程を経なくては、いくら天の人になろうとしてもだめなのです。だめだというのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛の人になって、天国に行こうとしてそうするのです。愛の人になって、天国に行こうとする人が、天国に行くのです。
そのときに、審判主は誰か? 神様が審判主になるのであり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。分かりますか?(はい)。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の法として指示された課業であり、命令だという事実を知るべきです。(一〇三\二三六)
真の愛は何か? 神様と真の父母を中心とした、血統的父子の関係、子女の立場に立つようになるときは、このXとYの線を…。キリスト教で言う審判を免れることができるのです。それゆえ、真の父母の愛の圏を中心としてこそ、すべてが解けていくのです。(一九〇\三一五)