P.194 |
1)霊界の前の姿勢
開拓時代にある我々に、トゥルマギ(外套)はむしろ引っかかりになるのです。それゆえ、パンツだけはいて礼拝に出るときがあるかもしれません。そうではないですか? 戦場では、パンツだけはいても十分なのです。戦場で銃を持って盛んに戦うのに、軍服を皆取りそろえて着るか着ないかを調べることができますか? それも最後の激戦地、最後の場なのにです。あれこれ考えてみると、死ぬからには、ごちゃごちゃと引っかけて着る必要があるかというのです。ただ気持ちよくパンツだけはいて、激戦地で戦えばちょっとどうですか?(笑い)そうだといって罪になりますか? 軍規にはずれる、戦法上そうしてはいけないと、問いただすことはできないのです。(三一\二〇四)
死ぬまでしてみろということです。死んでみようということです。死ぬには、うまく死ななければなりません。うまく死んでみようというのです。死んだ後に、再び生き返るのです。死ぬのは自分の仕事で、生きるのは神様の仕事です。もし神様が生かすと言われた約束を破れば、神様が約束不履行者になるのです。
もし、自分が死んだのに、神様がその約束を不履行したなら、神様が自分をそのまま閉じこめておくか? 違います。何百倍以上の他のもので返してくれなければならないのです。そんなふうです。そうではないですか? 死のうとして死んだのに、死ねば復活させてくれると約束をして、その約束を守れなかったら、その代価以上で返してあげなければならないのです。自分一人死んだのに、自分を復活させない代価として「我々を国を生かしてください」と言えるのです。その代価として、世界をかけることもできます。そのような意味では、嘘を言ってでも自分を死の道に追いやる神様なのです。(四四\二五五)
皆さんは、死の峠が前に置かれているとき、そこを逃避しようとする弱者になってはいけません。歴史的な死と決闘して、一つの命の死を越えて、歴史的な死を生かすというなら、彼は死んでも歴史的な復活をするときに、蘇生することができるのです。それゆえ、死の峠が前に置かれているときにも、生命をかけて飛びつく人が知恵深い人です。首を差し出して飛びかかる人が、知恵深い人なのです。分かりますか?
自分個人の首を差し出して、蕩減の道を行き、家庭の首を差し出して、蕩減の道を行くからには、その家庭は世界の王宮を占めることができるのです。何の話か分かりますか?(三一\一七一)