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4)真の父母との結ばれた因縁の強度

真の父母は、人類が探すべき真なる父母です。その真の父母がいることによって、真なる善が成立するのです。では、その真の父母は、どんな方か? 父とともに行くことができる一つの足場になる方です。一つの祭物の立場に立った方が真の父母です。すなわち、祭物なのです。言い換えれば、真の父母は人間と神様との間隔とくぼみを埋めるための、一つの祭壇であり、死亡世界を越えうる橋だと言うことができるでしょう。

このような観点で見るとき、その立場は、神様と自分が共にすることができる立場であり、神様と父子の因縁を結ぶことができ、神様と一体をなしうる一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれた神様と、再び一つになることができ、分かれた二つの境界線が一致しうる一つの起点になり、蕩減の祭物の立場に立たれた方が誰か? 真の父母なのです。

我々が切迫した立場に立って、神様を呼ぶとき、神様が千年の事情を皆忘れて、自分と因縁を結ぶことができる立場があるなら、その立場は世の中の何をやっても換えられない立場です。

救いが必要な我々自身において、父と共にすることができるたった一つの因縁、父と共にすることができず、父と因縁を結ぶことができない人類が、自由な環境で父と因縁を結ぶことができるようになるため、父が送ってくださった因縁が何か? 真の父母の因縁です。

では、真の父母の因縁が、神様から自分自身に無条件に与えられたこの栄光を、何で感謝するのか? 皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか? そして、皆さんが救われることができるようにしてくれた、その恵みに対して、歓喜の姿を持って、天地に勝利を誓うことができるようになった自身であるということを、どれほど考えてみましたか? 無限の希望を持って、無窮の価値を持って、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか? これが問題です。

では、父はどうなさったか? 息子娘を探してこられた父の歴史的な願いが、この地に来られる真の父母を通じてなされるということをご存知の父が、その真の父母をどれほど憧れてこられたか! それなのに、父が憧れられるその基準と、死亡世界にいる皆さんが、救われるために憧れる基準を比較してみるなら、我々は父よりもっと貴重に思って、父よりもっと貴く思って、父よりもっと価値あるように感じるべきなのにもかかわらず、今までそうできませんでした。そのような我々自身であるということを考えてみるとき、我々は反省しなければなりません。

父と共にすることができ、父と因縁を結ぶことができ、父と再会することができる立場を、人間が期待するように、神様もどれほど期待なさるでしょうか? そのような立場に自分が行こうと、そのような勝利の基盤を自分が築こうと言えなければなりません。どんな困難があっても、その困難を克服し、その成果を上げて、すべての生涯の価値を左右する転換点として、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。このような見地で見るときに、今日我々の信仰の姿勢がどれほど偽りであり、流れていく風の便りように落ち着かず、彷徨したかという事実を悟らなければなりません。

父と共にすることができる我々になっているか? 父が共にすることができる自分になっているかといえば、そうでないのです。救い主が必要なのです。では、その救い主は、どのような方か? 真の父母の因縁を備えた方です。このように見るとき、この真の父母の因縁がどれほど驚くべき因縁ですか? 真の父母によって、自分の真なる一生が始まるのであり、新しい生命の因縁が出発するのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのであり、新しい我々の社会と国家と世界が出発するのです。そして、二千年のすべての生死の道を解決する勝利の与件が始まるという事実を、皆さんがもう一度悟らなければなりません。

そこには自分がないのです。神様も堕落した世界を救うために、受難の道を歩んでこなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべき神様ではありません。新しい愛の因縁をもって出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。そのような立場で、父と自分との因縁が結ばれるのです。四方が一致化しうる因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天宙の基盤を持つようになるのです。このように、父母と子供の間の因縁が実現することによって、世界は新しい出発をすることができるのです。

真の父母と皆さんと結ばれた因縁は、どんな剣や、どんな権力をもっても断つことができず、サタンの力でも断つことができません。なぜ? この因縁は、瞬間的な今日のすべての問題を突破して、人間たちを救うことができる勝利の特権を持っている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地であるためです。従って、ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つことができないのです。このように、すべての悪なるものを除去して、新しい因縁を備えて勝利の出発をするために、神様が歴史的な祭物として立てた方が、真の父母というものです。

皆さんは、今まで祈祷する中に、ただ天国に来ているような立場で、父を呼んだりもしたでしょうが、父が深刻な立場におられ、父が気の毒な事情におられるように、自分も気の毒な事情にいるべきであり、互いが心に表現はできませんが、父の気の毒な事情が、自分の事情として感じられなければならないのです。そして、「お父様、私にどのような悲しみがあっても、どのような困難があっても、心配なさらないでくださいませ」と言いながら、子供としての道理を果たし、慰めてさしあげることができなければなりません。そのような一人がこの地上に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道がありません。

我々は、限りなく難しい立場に立っても、神様の前に同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげることができる立場に立つべきです。そのような因縁に従って、歴史時代を経て、積もりに積もってきた結晶体がイエス様でした。ですが、イエス様がみ旨をなせなかったために、再び来られる主が、そのみ旨をなさなければなりません。そして、再び来られる主が、行くべき道もその道です。すなわち、真の父母の道です。真の父母は、歴史的な希望の集約体です。神様が全体に代わった、歴史的な条件的実体として立てた方が真の父母なのです。

真の父母との因縁は、霊界からではなく、地上からつながらなければならないのです。真の父母は、実体を備えて地上に来られるためなのです。それで、真の父母は、自分が呼べば答えることができ、自分が難しい立場にあれば、同情してあげることができるのです。このように平面的な途上で真の父母に会うことができるということは、人間たちにはどれほど幸福なことか分かりません。

神様は、今まで歴史時代に、どんな困難があっても、そのすべてを克服して、このような内容を中心として、決定的な勝利をしようとされたのです。

ところで、自分自身について見るとき、自分が一つの勝利の王者になるか、なれないかというのが問題です。その心情の前に一体となって、離そうとしても離すことができない自分自身になったと言えなければなりません。言い換えれば、父とともにいるという信念、真の父母とともにいるという信念が、皆さんの生涯路程の軸にならなければなりません。それで、皆さんが行く方向で、動揺がなく、千年万年持ちこたえうる自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて天上天国と地上天国が開かれるのです。

このような観点で見るとき、このような因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。いちばん難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかという最中、よりいっそう冒険する立場で結ばれるのです。

それゆえ、聖書を見れば「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言いました。これは、イエス様が時代錯誤的な言葉を言ったようですが、このように行くのが復帰の道を行くにおいて、心情の世界に似ていくにおいて、正常的な姿勢であり、正常的な態度だと言えます。このような境地を追求していく自分であることが明らかであるなら、その道は真なる路程になるのです。(三一\七四)