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7)死は三世界を連結する過程

神様がですね、赤ん坊が横になってうんこをして、はい回っても喜びますか、はい回っても? 喜ぶでしょう?(はい)。(笑い)おしっこをして、うんこをしてしきりにすれば、どのようになるかというと、しきりに大きくなるのです。また、寝そべって、ただしきりに食べれば、しきりに大きくなり、その次に何カ月かすれば、ただうつ伏せになって、はいはいをしたりしますが、それを皆喜ぶのです。なぜ喜ぶのでしょうか? グローイング・アップ(growing up ; 育つ)力によって、神様の心に動く愛の拍子がグローイング・アップすることができますか、下りていきますか? 神様がしぐさをすると、子供たちもしぐさを一緒にするのです。神様が笑えば、一緒に笑い、神様が悲しまれれば、一緒に悲しみます。だんだん似ていくのです。

さあ、そうなれば、育って父母がすることを皆するのです。言葉も話すことができ、活動もすることができるのです。それを見るときは、神様のもっと深い愛、もっと広い愛、もっと大きな愛を備えることができるという言葉が可能です。さあ、では、人は地球星に暮らしていますが、神様が地球星にともにいて、あちら側にヒューッと飛んでいくとき、「ああ、私もついていきます!」と言えば、「この野郎、おまえはだれか?」と言って捨てるべきですか、連れていくべきですか?(連れていくべきです)。

連れていこうとするのに、今は連れていけないから、後で連れていくと言ってこそ、「私はもう少し大きくなって、もうすこし完成してこそ、そのときに連れていくんだ」という言葉でも言っておいてこそ、「ああ、そうですか! そちらは、そのときになってこそ行くことができるのだなあ」と言って、今行けなくてもそのときが来るのを待つのであって、ただ行ってしまえば、待つには何を待ちますか? 離れてしまえば終わりなのです。それが理解できますか?(はい)。このように見るときに、肉身を身にまとった人が、地上で神様について回ることができますか、できませんか?(できません)。

さあ、では問題が何か? 自分も神様に似たいし、神様も自分が神様の息子娘であるなら、似させたいという観念を持つのは必然的なのです。ですから、自分は神様に似たいし、神様は自分を連れていきたいこれを可能にしうる道を模索するでしょう。それで、人は、再び神様と似ることができる体を着て生まれなければならないという結論が出てくるのです。そのように産む日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、それが必要ですか、必要ではありませんか?(必要です)。それが何か? 死というものです。では、人間は、死を歓迎すべきですか、でなければ、歓迎してはいけませんか?(歓迎すべきです)。それは死ぬには、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ、肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に、自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためだというのです。

さあ、神様の愛の中で生まれるのが、死ぬことですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。では、神様はそれを見てケラケラ笑うでしょうか、「ウー」と言うでしょうか? 人間世界で泣きわめくことを神様が見るとき、笑うでしょうか? 何、どうするでしょうか? 悲しみますか、喜びますか?(喜ぶでしょう)。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入しうる喜びを迎えることができる瞬間が、第二の出生である死の道を通過するその瞬間ではないか。

そうであるなら、神様が皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限拡大の世界の愛のために活動する息子として生まれるその時間を喜ぶでしょうか?(後者です)。なぜこんな話をするのか? 皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないためです。(拍手)

皆さんは今、一度そのような神様の息子として、本当に生まれる場合には…。あの無限な星の中にはですね、ダイアモンドの星の世界がありますか、ありませんか? それを考えてみなさい。ダイアモンドを持ちたいでしょう?(はい)。金だけでできた星がないとは言えないのです。それがありえます。神様、我々の父が、どれほど金持ちでしょうか? 考えてみましたか? 無限のこの宇宙を瞬間的に往来することができます、瞬間的に。それに関心がありますか?(はい)。本当に関心がありますか?(はい!)関心がありますか?(はい!)そうするには、どうすべきかというと、神様が「するな、しろ」というその法度を守らなければならないのです。そうしてこそ、それが可能であって、自分勝手にしては可能ではないということは、理論的に合うのです。皆さん、神様が「するな、しろ」ということを守ることができますか?(はい)。それには、人は二重になっているために、心が主体であり体は対象なので、体と心が一つになれ! 合っていますか、違いますか?(合っています)。

それで、人は三つの世界、蘇生・長成・完成時代を経ます。腹中の水の世界、その次の地上の地球星世界、その次には天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、腹中の水の時代、その次には、地上に生まれて生きる一〇〇年の地の時代、その次に飛んでいく空中時代、このように三時代を経ます。

腹中にいるときは、ああ、この外の世界に出ようとしますか、ここにくっついていると言いますか? それがこれほどの穴から自分が抜け出なければならないなら、「ウー」と言いますか、「ああ、いい!」と言いますか?(笑い)「そうなるには、自分がいる家がみな破壊され、自分が暮らしていた所の栄養の価値とすべてが壊れていって、自分の頭も膨張して、体も膨張しなければならないのに、それでもいいか?」と言うとき、全部が「ノー」と言いますか、「イエス」と言いますか?(「ノー」と言います)。出る前の時間まで、お母さんは死にそうだと力を入れて子供が生まれる時間まで「ノー、ノー、ノー」と言って、どっと…。(笑い)追い出すから出るでしょう。そうなれば、一つの世界がすっかりなくなって、一つの世界でまた「フーッ、フーッ」と息をするのです。

人はいちばん初めに生まれるとき、いちばん深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。皆さんはそれが分かりますか? そうでしょう? 赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水の中にプカプカ浮いているでしょう? それを考えてみると「ああ、息が詰まってどうして生きるか」と言うでしょう。そうですか、違いますか? 水の中に暮らすために、水を吸って送り出すことをしなければならないため、赤ん坊はホースをお腹につなげて生きるのです。それが何のことか皆さんは分かるのです。

また、赤ん坊が栄養分をどこにやって供給されますか? へそに。そうでしょう? へそがお腹の中の何ですか? 入口なのです、入口。ですから、それをばかにしないでください。「へそや、おまえは昔苦労した」と言い、叩いてやれというのです。(笑い)へそをたくさん叩いてやれば、健康になるのです。笑わないでください。そのように運動しろというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆い被せて寝れば下痢になりません。分かりますか?

ここが地です、分かりますか? 風がこっちに入るのです。(行動で表現される)それゆえ、昔の功を忘れるなというのです。ですから、愛して叩いてやれというのです。(笑われる)

「昔の皆さんの口がどこか?」と言うとき、「この愚か者め、昔の口がどこにある」と言うかもしれませんが、昔の口はへそです。この息をする器官が上がるのです。へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか? この口です。絶えず上がるのです。統一教会式で言えば、これが蘇生、これが長成、その次に完成はこれです。(行動で表現される)

では、へそにへその緒をつけたのを、再び使うべきですか、ぷつっと切ってしまうべきですか?(切ってしまうべきです)。切ってしまわなければならないのです、「それは人の命綱なのに、人と人の命綱を断ってしまうか? なぜその命綱を断ってしまうか?」と言うでしょうがね。(笑い)それを見るときに、赤ん坊は死にそうだと「ワーワー」泣きますが、神様が見るときは、笑いますか、泣きますか?(スマイル)。スマイル!(笑い)

全く同じです。空気の世の中で、今霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身をすすって、肉身がすっかり老いて、蹴ってしまって出ていこうとするのに、肉身が「ああ、死なないぞ。死なないぞ!」と言うときに、神様が見ればスマイルしますか、「ああ」と言って同情しますか、「この女め、この野郎」と言いますか? 胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、この肉身が、霊的父である永遠の神様と相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則的な結論です。

胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができるのが、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母の代わりの神様と、愛を分かち合うことができる霊界に生まれなければならないのです。

霊界はどのような所か? 霊界のすべては、ひよめき(幼児の頭蓋骨の隙間)で息をすると言えば間違いありません。これをひよめきと言うでしょう? ひよめきという言葉はありますが、ここで息をしてみましたか? ここをひよめきと言うでしょう? 幼い子供たちは、ここが、ひよひよしますが、これを何と言いますか? それがなぜ、ひよめきですか? それは皆、啓示的だというのです。私は、韓国語がそれで本当に好きなのです。霊界に行けば、てっぺんで息をすると言えば間違いありません。では、てっぺんの上に誰がいますか? 神様がいるので、神様を見てひそひそしようとは、当たっているでしょう、えっ。(笑い)そうではないですか?(笑われる)それゆえ、霊界に行くようになれば、てっぺんで息をするのです。

見なさい、水の中の時代があり、その次には陸地の時代があるでしょう。そうでしょう? その次には、何ですか? 飛んでいかなければならないでしょう。飛んでいく時代があれいばいいですか、なければいいですか? 今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか? 飛んでいくというなら、世界のいちばんの注目の的になり、世界が飛んでいくところで初めて統一されて見ました。アポロ一一号を中心として…。そうでしょう? 飛んでいくところにおいて、統一されて見たのです。それ以外には統一して見たことがありません。

地上でこのような愛を呼吸する人は、死んだのではなく生きたのです。腹中で呼吸するときは、未来の空気の世界のパイプを仕掛けて生きています。生きていますが、皆へその緒につながった胎盤を破壊して死んで出るようになるときは、新しい次元、高い次元に…。これがどれほど変化するか? 高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。

ここから出てきては、何を発展させるか? 空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。分かりますか? ご飯だけ食べてはいけません!(はい)。ご飯を食べるのは、死んでいくのです。水を飲んで、皆このように生きるのは、全部袋です。水袋です。全部死んでいくのです。それは、第二の存在です。ここから何を、この期間に何を満たすべきか? この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません!(はい)。

この地上で、皆さんが必要とするものが愛でしょう?(はい)。孤児が何ですか? お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ孤児と言うのか? あの霊界と永遠につながりうる愛がないためです。それで、一人で暮らす人を、独身暮らしをする人を、かわいそうだといいます。

新しい「私」は、こうなのでどうせ壊して行かなければなりません。死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体につながったこの器官を壊してしまって、愛の要素を受け継ぐのです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛、このすべての愛を中心として、皆さんの一つの内的な構造が育っているのです。

それで。神様の法則のとおりに暮らすときに、胎内で正常的な赤ん坊として育つのと同様に、地でよく育つべきですか、むやみに育つべきですか?(よく育つべきです)。

見なさい、昆虫も飛び、木の実にある木の種も、飛び回るすべを知るのです、風が吹けば。皆さん、あのダンデリオン(dandelion;タンポポ)の種のことです。それは、自然に飛ぶようになっているのです。飛び回るようになっているのです。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのに、ああ、万物の霊長の人が飛べませんか?

皆さん、神様を見てじっとしていますか?「神様、皆飛ぶのに、私はなぜ飛ぶようにできなかった、神様よ?」と言って抗議したくないですか?(笑い)神様が、「おいおいおい! ちょっと待て。おまえたちは、何十年か過ぎればそのようになるから、待ちなさい」と言うとき、「ああ、そうですか。それならそうでしょう」と言うのは大丈夫なのです。

では、そのときまで何をすべきか? そのときその世界に行って合うように、ここで訓練しなければならないのです。お母さん、お父さんを見て喜んでこそ、神様を好み、新郎と好んでこそあの世へ行って、神様を好んでそうするのです。訓練場が地上世界なのです。さあ、それを願う人、手を挙げてみなさい!

さあ、それでは、それを願うのに、死なないで可能ですか? 死なずに可能かというのです。この体を脱がないで可能ですか? 体を脱がなければなりませんか、脱がなくていいですか?

セミの子を知っているでしょう? シーケイダ(cicada;セミ)がですね、飛ぶようになる前に幼虫でいるとき、「私は幼虫として生きる。ああ、皮を脱ぐのが嫌だ!」そう言っても、脱いでしまえば、ばたばたっと飛ぶようになるのです。鳥でなくシーケイダ! セミのことです、セミ、セミ。モスキート(mosquito;蚊)、蚊ではなく、セミがいるではないですか? セミ。モスキートでなくセミですよ。シーケイダ! そう、シーケイダ! それが幼虫からセミになるときに、それを脱ぎたいですか?「ああ、陸地だ何だ、空気が何だ、皆嫌だ」と言いますか、「私はいい。どうぞ脱がせてください」と言いますかということです。飛ぼうと思わないのです。

トンボもです。初めは幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、陸地では食べるだろうと思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。そうでしょう?

昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、羽のない昆虫がいるのです。そうでしょう? 大概羽があるでしょう? 昆虫もこのように、水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間が羽がありますか? 地上でだけ暮らせばいいですか? 次元の高い羽があるのです。

皆さんもこれが嫌だと言いますが、死んで脱いだら「ひゅう」っとするのです。それが嫌ですか、願いますか? それを願いますか、嫌ですか?(願います)。事実がそうなのです。嘘ではなく、事実がそうだということを知るべきなのです。全く同じだという事実を、皆さんは知るべきなのです。死が我々において、第二の出生の幸福で楽しい関門だということを、皆さんは知るべきなのです。(拍手)

さあ、人は水の世界で一度暮らしてみて、地の世界で一度暮らしてみたでしょう? では、空中の世界で一度暮らしてみたいですか、暮らしてみたくないですか? 皆さんが腹中から生まれるとき、「私は陸地の世の中に出て、口で蜜も食べて、餅も食べて、ご飯も食べて、牛肉も食べて、皆食べる」と考えてみましたか? それを考えてみたことがありますか? ああ、ここを抜け出せば死ぬと言いながら、へそで息をして生きているのです。それを考えれば、どれほどもどかしいですか? 今それを考えれば、窒息するほどでしょう、そうではないですか?

それでも、その腹の中から外に出ると思って「ああ、出なければいい」と言うのです。出ればいいと言ったでしょうか、出なければいいと言ったでしょうか?「ああ、出れば死ぬ」と言ったでしょう?「ああ、出てはいけない」と言うでしょう。しかし、出てはいけないと言うでしょうが、時になれば、皆どっと出るのです。羊水が流れ出れば、羊水がどっと裂けて出るのに従って外に出てくれば、安産になるのです。うまく生まれるのです。

赤ん坊を産むとき、お母さんたちが、赤ん坊を産むのを見ると、実にかわいそうです。力を入れますか、入れませんか? 赤ん坊を産んでみたお母さんたちは、皆分かるでしょう。その味がどうだということを…。力を入れるときは、顔がいくら美人だとしても、ただ、顔をしかめて…。老いたおばあさんの顔は、それに比べれば美人なのです。(笑い)その顔を夫が見られないのです。その顔を見るようになれば、のぞきからくりが繰り広げられるのです(註:何でも見られるという意味)。すてきな万屋が展開するのです。「あっ」と叫びながら…。そうしてみれば、そこにいた人は皆死んだのかと言うのです。

病院では、習慣的に赤ん坊を産むときには、ああいうものだと知っているために、ただ見ているのであって、もし初めて直面することなら、一人も残っておらずに、皆逃げていくのです。ああ、とそう叫ぶときはです。それを皆知っているからそうでしょう。

死ぬのは何か? 地上生活は、空気中で胎内のように泳ぎ回って暮らすのと同じです。分かりますか? 空気のおくるみの中で、生きているのです。そうではないですか? 死ぬのは何か? 死ぬのは、別に変わったことではなく、第三の人生として出生することです。その瞬間が死ぬ時間です。そのように考えるから気分がいいでしょう?(一一六\一七二、四九\二八五、一三九\二一四)