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我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があることを知っています。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながらなければならないということも知っています。
では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所がどこか? もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれるようになれば、一生の間一〇代を過ぎて、二〇代をすぎて、三〇代を過ぎて、中年を過ぎて、壮年、老年時代を経て行くというのです。青春時代を過ごぎして、壮年時代に入るようになれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というのがちょっとの間であり、死んだ後には我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生の期間ということは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中が、そのようなもののようではないですか?
学生を例に挙げて言えば、学生が一学期、あるいは一学年において、その学校が制定したすべての学科の単位を取らなければならない、単位の基準があるのです。その基準を百点として見るとき、その基準にどれほど到達したかという対照によって、学校で認められる学生になるのです。
しかし、単位に達しないパーセンテージが、多ければ多いほど学校が立てたその価値基準から遠ざかるのである、このようになるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになっているのです。
我々が一生の間、肉身世界で暮らすのは、まるで学校で一単位を準備する期間と同じだというのです。我々の一生をかけた単位を準備する、ある一生という過程において、やるまいとしてもやらないといけない、責任部署に該当する実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかというその基準値を中心として、皆さんが毎日生涯路程を行っているのだということです。
本来人間が生まれて、この世で生きて本来の行くべき道、本然の世界に基づいて我々が生まれて生きて、行くべき所がどこか? これが確実でないというのです。それゆえ、一般の人たちは、霊界があるのかないのか、神がいるのかいないのか分からないでいるのです。(一四〇\一二一)
皆さんすべて霊界に行かなければなりません。皆霊界に行かなければなりません。それが一つの国ですか、二つの国ですか? たった一つの国です。一つの世界です。では、その世界で生活する内容がなんだろうか?
それを考えてみましたか? 水の世界の魚は、水の世界を離れて生きることができません。水が絶対的な生命です。川の水に暮らす魚が、川の水だけにいてはいけません。海の水にも行ったり来たりしながら暮らさなければなりません。なぜそうであるべきなのか? 淡水の魚は、海水と接するその水を味わってみずには、繁殖できません。それを知るべきなのです。それが分かりますか? 海に暮らすものは、必ず淡水に来て、味を見てこそ繁殖するようになっています。二つの世界に通じなければならないのです。体と心もそのようになるのと同じように、通じなければなりません。(二一〇\一二八)