P.79 |
@ 愛と直結した永生
我々は、永遠でありうる! 永生を願う! 永生を願うのに、変わらないものは何か? 愛である! このように出るのです。他のものは皆変わります。環境的に変わるのです。では、愛はなぜ変わらないのか? 愛は、すべての生命力の中心であるために、変わらないのです。愛がなぜ変わらないか? 愛は理想的な与件の中心に位置を占めるためです。中心は、その周囲が全部なくなる前には、なくならないということです。愛は宇宙の中心になっているために、愛と一つになることによって、その愛は、神様を中心とした愛と一致しているために、神様が残っている限り残っているのです。(一五七\二六七)
A 真の愛と永生
真の愛が何か? 皆さんが結婚するとき、結婚相手は自分よりましなのを願うでしょう? 自分の息子娘が、自分よりましであるのを願わない人がどこにいますか? それは誰に似たのか? 神様に似たのです。その言葉は何かというと、神様も愛の相対は自分よりましであるのを願うのです。それを否定できますか?
絶対的な神様が、我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子娘の前に、絶対的に行えと命令できますか? できません。神様も愛の相対は自分よりましなのを願われる原則から見るときに、人間の価値が最大の価値です。神様より高い価値があるということです、愛を中心として。分かりますか?
それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それが不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったら可能なのです。
天上の高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、何かを願ってみて、首が引かれて回り、服従してそのようになっていません。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたがりません。これは、万民が平等です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行くことができるのです。神様の友達になることができるのです。
愛のために人間を創ったというときは、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様であるために、愛に一致した人間自体は、永生を持つということは、自然的な論理です。それゆえ、真の愛は永遠であるべし! そうでしょう? 永生するには、その真の愛の圏内に暮らさなければなりません。(二一一\二七二)
真の愛により、永生が可能です。なぜか? 創造の出発、動機、過程から、すべての目的が、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。
自分の体と心の完成というものは、真の愛に属することにより、根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、真の愛を中心として、神様も永存しています。神様が永存するのは、何を中心として永存するのですか?
永生は、愛によりつながるのです。それで、永生の環境をなすには、愛の環境を中心として生活しなければいけないのです。愛の実体圏を持つには、愛を中心として、実体的な体恤をしなければいけないのです。(二一八\一三四)
B 世の中で絶対必要な真の愛
皆さんは、神様が霊界のどこにおられるか、はっきり分からないのです。皆さんは、神様のこのような絶対的なセンター、愛のセンターという観念をはっきりと知らなければなりません。その愛の力は、もっとも早い真の愛の力なのです。その愛は、直短距離を通じます。
それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ、先生がこのようなことを強調するか? それを知るためです。神様を知り、永遠の世界を知るのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、このように生きることができるのです。
第一は、神様を知らなければならず、第二は、永生を知らなければならず、第三は、真の愛を知らなければなりません。これは投入です。百パーセント以上投入します。何の話か分かりますか?(はい)。百パーセント以上投入するところに永生があります。真の愛を持たなくては、永生がありません。永生しない人は、神様に会うことができません。(二〇五\一二九)
これから、世界をどのように収拾するか? 第一は利他主義、第二は真の愛、第三は永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は、利自主義です。サタン側と通じるのです。
あなた、インディアンの後孫か?(メキシコから来ました)。根が同じです。利他主義の思想を持って、白人たちを叩き殺さなければならないと考えることができますか?(できません)。
その次には、真の愛です。真の愛は、何ですか? 自分の生命以上を投入しなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。レバレンド・ムーンが、アメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠をぶっかけたでしょう?(はい)ここから真の愛が成立するのです。真の父母が成立しなければ、永生はないのです。
なぜそうなのか? 皆さんの生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統なのです。そうでしょう? サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。(板書され)この基準が、ここから…。ですから、神様の愛は、これ以上にならなければいけないのです。それで、聖書に言うには、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが第一のいましめである」と言いました。この言葉は何か? 心をつくして、思いをつくせと言ったのは、生命まで引っかかるのです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは何ですか?(隣り人を愛するのを自分の体のようにせよということです)。「自分の隣り人を自分を愛するように愛せ」という、それは何か? 生命をかけて愛せということです。生命を投入しなければいけないということです。なぜ、生命をかけなければいけないか? 第一は、サタンを屈服させることができず、第二は、サタンの環境を抜け出すことができず、第三は、サタンの血統を抜け出すことができません。この三つです。
サタンの環境は、抜け出すことができるとしても、サタンの血統はしかたがありません。真の愛は、生命を超越するのです。
男女が生まれたのも、利他主義です。男がなぜ生まれたのですか? 女のためにでしょう? これは、絶対的な真理です。これを否定する女がいますか?(いません)。それは永遠の真理です。なぜ、そのように生まれたのか? 愛、真の愛のためです。
男もそうであり、女もそうです。「二人で永遠に一つになりたい。」と言うでしょう? それで、二人が一つになって何をするか? 神様を占領しようというのです。真の愛でなければ、神様を占領できません。
皆さんの家の中に、主人が誰になるか? その家の中全体のために、一生の間生きていく人は、中心者になるのです。それを知るべきです。神様の代わり、父母の代わりに中心者になるのです。そうでしょう?(はい)。百名の友達がいるというとき、その百名のために一生の間生きれば、その友達百人からあがめられる中心になるのです。百年を通じてもそうです。ですから、永遠の世界で、永遠に為にする主人がいれば、永遠の主人になるのです。その方が誰か? 神様です。ところで、その方は我々の父であるために、すべての宇宙が「私」とともにいるというのです。そこに永生があります。そうでない所は、永生がありません。
それで、聖書に、「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言いました。それがどんな言葉か? 死を越えるべきで、越えなければ生きることができないのです。そのままいれば、死んでいるのです。それゆえ、皆さんがその線を越えられず、あの世に行くようになれば、地獄に行くようになるのです。そこは、三層になっています。地獄も三層になっているのです。天国も同じです。しかたがありません。行ってみなさい。先生の言葉が合っているか、合っていないか。信じられないなら、今でも死んでみなさい。そうだといって、先生が死ねと言ったとは話さないでください。(笑い)間違いなくそうなのです。(二〇五\二五八)
C 愛と関係した死後の世界
皆さん、考えてみなさい。神様がおられますか?(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか?(ありません)。なぜありませんか? 時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか? 過去も、現在も、未来も、同じだということです。そのようになっても、嫌でありえない作用を引き起こすことができる、神様が安息されうる本来の基礎が何か? そのようなことが問題になります。
それが何ですか? ああ、全知全能であられる能力を持って可能か? だめなのです。神様の知恵、全知全能、分からないことがないことをもっては、だめだということです。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も「愛」と言えば「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。
我々は結局、どこへ行くべきですか?(霊界です)。霊界。それは何を言いますか? それは、何を言うのですか? 死後の世界と大概は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になりえないか? 愛と関係している世界であるためです。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として、出発したものであるために、自分が真なる愛の立場に立っているようになるときは、今ここが霊界です。違いますか? それゆえ、愛が偉大なのです。
そうなれば、今霊界があって、皆さんが「おい、霊界よ!」と呼べば、霊界が「何だ?」と言うのです。「おまえは、どこに暮らしたいか?」と聞いてみるなら、その霊界が「ああ、私は神様の知識の世界に行って安息します。」このように答えるでしょうか?「ああ、天地創造される神様の能力の場に行って暮らす」と言わないのです。何かお金はなおさらのこと、「ああ、黄金の板に入ってうつ伏せに寝る」と言わないのです。
縦的な球形運動をしてこそ。上下・前後・左右が和合することができるのです。縦は縦で、横は横になって和合ができなければ、上下・前後・左右全体が和合できないのです。統一が繰り広げられないのです。それで、愛だけが統一することができるのです。
それゆえ、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論なのです。(一四四\一九九)
神様が人間を率いてくださろうとするのです。神様も息をするのです。愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙の拍子に合わせるために、愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。それゆえ、皆さんがここまで行かなければなりません。そうしてこそ、神様の呼吸圏内に入ってサッと越えていくのです。
さあ、皆さん、男と女が愛したがるでしょう? そのときは神様が「フー!」こういうときなのです。それで、愛するときは、力が集まるのです。その次に、力がない立場にスッと入るのです。スッと上がるのです。
愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになっているために、男や女が「ああ! 私、嫌だ」と言えないのです。拍子が合うときは、互いが愛さなければならないのです。方向が皆違いません。一方向です。全部神様を中心とした一方向です。(二〇一\一九一)
D 為に生きてこそ永生
おじいさん、おばあさんも、千年万年後代の後孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生に行くその公式的路程は同じものです。
そこには、為に生きた人たちだけがパスすることができる正門があり、そこに門番が守っているという事実を知るべきです。そこにパスすることができる資格者を作ってあげるために、先生がお願いすることであることを、よく知るように願います。(二〇三\一九三)