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4.肉身生活の高貴性

1)地で準備すべし

神様が、アダムとエバと万物を創られ、よしとされたから、これはすなわち、互いに闘うなということです。心が願う側に行うために、体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。

自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全に根を抜いて征服したということです。天国は、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地で事故になったので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべきことを皆できなければ、永遠に地獄に行きます。それゆえ、地で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。(六五\二九四)

この肉身世界は、短い期間なのです。長くないのです。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのであり、ご飯を食べる時間が惜しいのです。ご飯を食べるのも、行きながら食べるのです。寝るのも、行きながら寝て、遊ぶのも、行きながら遊び…。それはどれほど悲惨ですか? そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。

さあ、これは歴史的な内容だということを、皆さんが知るべきなのです。(八〇\二二六)

私がたとえ制限されたこの地で七、八〇年いても、我々の舞台は世界の祭壇です、世界の祭壇。それゆえ、ここにある万物は、世界の万物であり、ここの自分の体は、世界人類の体であり、ここの自分の心は、世界人類の心であり、その心の中心、自分の心情は神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。しかし、祭壇を汚すのか? 祭壇を汚すのか?(七五\一六六)

偶然に事が起きるのではありません。準備というものは、容易い準備がありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備時代であることを知る人は、将来性があるのです。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生自体は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間であり、準備期間であるということを、私はよく知っています。(一四七\一八八)

我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があるということを知っています。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながるべきだということも知っています。

では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきそこがどこか? もちろん、我々は肉身生活をしながら、この地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれるようになれば、一生の間一〇代を過ぎて、二〇代を過ぎて、三〇代を過ぎて、中年を過ぎて壮年、老年時代を経て行くというのです。青春時代を過ぎて、壮年時代に入るようになれば、だんだん、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように人生を終えます。

しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に我々が迎えるべき世界が、永遠だということを知っています。ゆえに、一生の期間というものは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中が、そんなもののようではないですか?

学生を例に挙げて言えば、学生が一学期、あるいは一学年において、その学校が制定したすべての学科の単位を取るべき単位の基準があるのです。その基準を百点として見るとき、その基準にどれくらい到達したかという対照によって、学校で認められる学生になるのです。

しかし、単位に達しないパーセンテージが、多ければ多いほど、学校が立てたその価値基準から遠ざかるのである、このようになるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになっているというのです。

我々が、一生の間肉身世界で暮らすのは、まるで学校で一単位を準備する期間と同じだというのです。我々の人生をかけた単位を準備する、ある人生という過程において、やるまいとしてもやらなければいけない責任部署に該当する実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として、皆さんが毎日生涯路程を行っているのだということです。(一四〇\一二一)

神様がどれほど偉大な方ですか? 神様が絶対的な方なのに「私のためにしろ」という感情を持ったら、堕落した人間世界をこのように退屈に待ちながら、救いの摂理をしたでしょうか? 皆さんを神様の立場に持っていって置いたら、何日間神様の役割をすることができますか? 一週間?(いいえ)。では、ひと月? 一年? これが問題です。霊界に行けば、いっぺんにぶつかるのです。それを尋ねてみなさい。毎朝起きて、顔を洗って鏡をのぞきながら、「今まで何をしたか? 今からは何をするか?」と、自分自身に尋ねてみなさい。答は分かり切っているのです。弁明は要りません。間違いないのです。鏡の中の自分自身をよく知っているではないですか? 大部分、その自分があの世のどのレベルに行くだろうということが分かるのです。何の話か分かりますか?(はい)。

死が来るのです、死。死ぬ日には、自分のための比例に従って引かれていくのです。少しましなら、こちらの中央に引かれていくとか…。レバレンド・ムーンが、このようにはっきり教えてあげたのにもかかわらず、落第する人や、地獄に行く人は、私を見て讒訴できません。「なぜ、地上に暮らす間に、はっきりと教えてくれませんでしたか?」という言葉は言えないのです。

それゆえ、自分が、今すべてを自分のために消化するのではありません。神様のために、天地のために消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対のために、消化するということを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。為に消化して生きるようになれば、すべてが完成した世界に引かれていくことも、自分のために引かれていくために、自分が行くまいとして逃げていっても、後ろに引かれていっても引かれていくのです。天国に行きかけて逃げていっても引かれていきます。それがどれほど安心となり、楽でしょう!

一生の間、自分を中心として暮らせば、「ああ、これもだめだったなあ! あれもだめだったなあ!」と言いながら、全部が心配です。しかしながら、為に一〇年、二〇年暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず為にしてみれば、自分は真空状態になるために、真が訪ねて入ってきます。「真なるそこに秀でようとするために、神様もついてくるし、創造主もそれを願うために私に属する」これは理論的です。それで、完全消化を願う人は、完全時代を相続することができます。そのような結論が出てくるのです。

我々統一教会の誇りが何ですか? 第一が何ですか? 真の愛! その次には何ですか? 真の父母! これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。今や我々の辞書を作るのです。その次には真の子女! その次にはまた何ですか? 真の氏族! これが我々の四大目標です。一番目が何ですか?(真の愛!)二番目は?(真の父母!)三番目は?(真の子女!)四番目は?(真の氏族!)これを持たなければなりません。真の愛がなければ、これが皆壊れていくのです。(二〇三\一〇一)