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二 自分は歴史的結実体

1 自分の起源は神様

人は、だれも皆、同様に四肢五体と目鼻立ちを持っています。しかし、その体が持っている内容においてはさまざまです。では、このようなさまざまな内容を持った数多くの人間の中で、「私」という人間は、どこに基準を置いて見るべきでしょうか? アダム・エバ以降の我々の先祖たちは、だれも基準とはなりえません。私たちが、複雑なこの世の中で関係しているすべてのことから、少しの間離れて、一人静かに自らを省みてみるとき、自分という人間は絶対的な存在ではなく、相対的な存在だということが分かるようになります。それで、手、目、鼻、口、腕、足などのすべてが、相対的な目的のために動くのです。これらが一つの目的に向かって合わさるときには、相対的な何らかの対象体を必要とします。このようにして動くようになれば、そこに良いとか悪いとかいう何かが存在するようになるのです。自分という自体は、この天地のどこに由来するのか? 人間はその根源を知りません。未知の存在から自分は生まれたのでしょうか?

それでは、自分はなぜ生まれたのでしょうか? 何かの目的があって生まれたことだけは間違いありません。しかし、自分自身は、ある相対の主体となり、または相対となるということだけでは足りません。ここに必要な条件的内容があるとすれば、それはどんなことか? これは重大なる問題です。今日の自分が存在するためには、何が必要なのか? 自分の周囲には、前後、左右、上下があります。

では、自分の周囲に存在するものの中で、自分が存在するようになった動機、主体は何か? それは神様です。これを神とかGodとか、神様とかいって呼んできたのです。

今日までの目的観は、人間主体の観だけでなく、神と人間の関係による観がありました。人間には、「私」という現在の実体を中心として、未来に成すべき目的としての実体があるのです。(一二・一四四)

2 自分の根源は愛

「私」である! この「私」という概念。自分はなぜ最も貴いのか? これが問題です。皆さんは分からないでしょう。どうして自分が貴いのか? あらゆる測定は、ただ人間のみを中心として測定するのではありません。自分が生きている日常生活、あるいは人類が今まで歴史を経て生きてきた、数多くの先祖から、今まで経てきた先祖から及んで体として存在する「私」、その「私」というものは、どこまでも第二存在として取り扱いたくないのです。いつまでも一番なのです。

自分も知らず、自分は貴いものと認め、自分という絶対的な位置であらゆることを測定できる基準として立てようとするのです。自分の意志、自分が願うこと、自分が好むこと、すべてをそのように考えるようになった原因はどこからかということが問題です。それはどこから始まったのかというと、神様から始まったのです。

神様は体と心の中心となる愛を基盤として、自分を立てたという事実を知るべきです。その「私」は、愛を中心として立っているために、自分は愛を中心として生きなければなりません。出発がそうだから、そのように伸び進んで、宗教を求めなければならないということです。

「私」というものがなぜ貴いのか、ということです。数万数千代の祖先を経てきましたが、本来の神様が考えていた自分という概念は、その伝統的基準と一致するようになるときに、その権威の位置を常に意識するために、自分というものを絶対視せざるをえないということなのです。その自分、立っている自分を支えている基盤の根源は何かといえば、それは愛というものです。(一三七・三一一)

3 三大父母による自分

「私」というものはいったいどこから生まれましたか? 皆さんを小宇宙といったでしょう、小宇宙? 自分はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体なのです。皆さんの体には、地球に存在するすべての元素が皆入っているでしょう? それゆえ、宇宙が加担しているのです。それを知るべきです。第一に、宇宙が加担しています。では、だれが自分を作ったのでしょうか? 宇宙が作ったのです。宇宙が作りました。宇宙が人間を形成してくれたのです。そうでしょう?(はい)。この宇宙が「おい、私のものを全部返してもらおう。」と主張するようになれば、すべて奪われるのです。結局自分は何かといえば、宇宙の元素を借りて形成されたのです。そのことを知るべきです。借りたのです、借りました。それは何を意味するか? 宇宙が自分を生んでくれたということです。自分を作ってくれたということです。

ですから、自分に父母があるならば、自分を生んでくれた父母はだれか? 宇宙が第一の父母です。これを皆さんは知るべきです。何の話か分かりますか?(はい)。一〇〇パーセント受け継いだ自分、宇宙から受け継いだ自分の父母は、自分の体の第一の父母は宇宙ということです。それゆえ、自分という存在はこの宇宙の元素を総合した実体だというのです。気分が良いでしょう?(はい)。

さあ、自分の第一の父母はだれですか?(自然です)。それゆえ、万物を第一の父母を愛するように愛すべきです。その次に第二の父母はだれか? 自分を生んでくれた実の父母です。(一〇五・一〇六)

人間には、三大父母があります。父親と母親、それからこの宇宙のあらゆる万物も父母です。ここから血肉の供給を受けなければなりません。しかし、これだけでは不充分です。これは生命の根であり、その実は神様に帰らなければなりません。神様に帰るべきなのです。そのように出発したものが回って、何周もぐるぐると回り、これぐらいの実になれば、ぽとりと落ちるのです。実とはそういうものです。

実というのは、愛の根源、生命の根源から出発して、その次には、一年草の長草なら長草の草が生えうる限りの枝から受難の津液を吸収して実となってこそ、ぽとりと落ちるのです。落ちるときは、夏に落ちるのではなく、秋のような時代を迎えて落ちるのです。循環軌道があるのです。

皆さんの父母はだれか? 万物が父母です。万物が父母なのです。元素を供給するこの大地、大地は父母ではありませんか? それが父母です。大地が第一の父母です、第一の父母。その次に皆さんのお父さん、お母さんは、第二の父母です。皆さんを生んでくれた父母です。その次に第三の父母は何か? 霊を宿らせてくれた神様が第三の父母なのです。自分の直系の父母がいるからには、傍系の父母がいるべきです。世界のすべての父母たちは、傍系の父母です。分かりますか?(一〇六・八四)

4 自分の背景は先祖

一体人間は、だれに似てこのような姿なのか? 父親に似たのです。では、父親はだれに似たのでか? 祖父母に似てそうなのです。こうしてどんどんさかのぼっていけば、人間始祖まで行きつくのです。人間始祖がそうであるため、私たちもそうだということです。では、人間始祖はだれに似てそうなったのでしょうか? これが問題になります。それは主人が存在して人間をそのように作ったためにそうだということです。

作品は、それを作る作家がそのように作ろうと思う、作品に対する構想があるためにそのように作られるものでしょう? そうではないですか? 恐らく、これを否定する人はいないでしょう。それゆえ人はだれに似るようになっていますか? お父さん、お母さんに似るようになっています。もし父母に似なかったとすれば、何代か前の祖先の性禀が隠されていたものが遺伝法則に従って、父母の性禀に合わさって一人の人間として生まれたのであって、何の原因もなく無関係な立場から生まれるはずはないのです。

皆さんは、自分独りによって、自分になっていくと思うでしょうが、すでに皆さんの先祖の方々が、数多くこの世に生まれては去っていきました。その数千代に及ぶ先祖たちを悪くいってはいけないので、社長様と呼びましょう。その数多くの社長を総合した、総社長として残ったのが皆さんという個体なのです。皆さん、こんな話を聞いて気分が良いでしょう? こんなに素敵なのが人間なのです。

ですから、皆さんは、何かというと、数千数万代の先祖たちの、様々な姿、資格、価値を収集して博物館に展示した、その展示品のようなものです。このような姿が、今日の皆さんの姿なのです。私たちの先祖がこの世界の前に「我々の後孫はこのようだ。」と言って展示品として立てたのが私たちなのです。そんなふうに考えてみたことがありますか? この世にただ一つしか無い、この天地間に男性と女性は多いけれども、個人自体について見るとき、自分の先祖の姿を全体的に総合して実を結んで生まれた人間なのです。(四一・一三九)

5 自分は歴史的結実体

「私」というものは何か? 一体私とは何か? 「私」の観念、平面上に現れた人間、私なにがしを中心として見るとき、「私」というものは何か? こうした問題について見るとき、自分は金だれがしであり、ある大学に現在在学中の学生だという、その自分ではありません。この宇宙の根源から過程を経て、現在に至る全体を総合したひとつの表示体なのです。ひとつの宇宙博物館の要素を縮小して、宇宙の宝物を展示したひとつの博物館のような価値を持った存在が、自分なのです。(一四五・一七六)

現在、皆さん自身は何か? 歴史的結実体です。そうでしょう? 結実体は結実体ですが、皆さんは歴史的氏族を中心とした結実体であるのです。皆さんは善なる先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生に出会ったのです。皆さん自身が先生に会いたくて会ったのではなく、皆さんが優れていて会ったのではありません。(四六・一五二)