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五 運命と宿命

運命という言葉について考えてみると、その「命」という字は「いのち」の「命」です。そして「運ぶ」の「運」です。命を運んでいくということです。またこうも考えられます。ある全体的な一つの標準となりうる命題を掲げて、そこに行くという意味にもなります。運命という道は、行かざるをえない道だということです。

韓国では俗に、もって生まれた星回りといいます。カエルは陸地で生きるより、水中で生きるのが良いのです。それは、生まれながらにそうであるため、そのように生きなければならず、死ぬときもそこでそのように死ななければなりません。それを離れては行く道がなく、生きる道がないのです。そのようになっています。

セミの卵がセミになるためには、これを何といいましたっけ? クムベンイ(セミの幼虫)といいましたか? クムベンイがセミになるのかよくわかりませんが、とにかくその幼虫時代があります。幼虫時代には、水たまりに住んだり、あるいは地面のくぼみの中に住んだとしても、彼らが行くべき道はそれではありません。それを通して大空を飛ぶことのできる道へと行くべきなのです。

空を飛ぶためには、いくら地面に穴を掘ってもぐったり、水中を泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければならないのですが、それは何か? 空を飛ぶことのできる翼を準備しなければならないのです。それが必要条件であり、絶対条件だというわけです。なくてはならない条件なのです。幼虫時代から成虫時代に移るためには、幼虫時代において、空を飛ぶための万全の体制が準備されなければなりません。そのために、反対の要素となる殻を脱いで準備することのできる一時期を必ず経なければなりません。脱皮しなければならないのです。

水中で暮らすときには平べったくなければならず、水面に浮いて泳ぐのにも都合がいいでしょうが、空中を飛ぶようになれば、そのままではいけないのです。それに合うように、すべてが備えられなければなりません。魚として生まれた運命ならば、それは水から離れられないのです。(一二〇・二三六)

一体人間が幸福になったり、不幸になったり、あるいは運が良いとか悪いとかいう、その起源は、どこから始まるのか? 人間自体が運を打開していきながら、造っていきながら、自身の幸福の基盤を広げていくことができるのか? もちろん努力するところにあっては、何らかの相対的基盤を築けるかもしれませんが、自らのこうした努力によって、自分の運勢を国家のような団体の運勢と直結させたり、更には世界の運勢や天運にまで直結させることができるだろうか? それは不可能なのです。そうした観点から見るとき、運勢というものは、間違い無く存在しているのです。(七八・二六三)

一つの峠を越えていけば、新しく出発することができるのです。宇宙は回っているのです。歴史は反復しながら、過去の形態を同時的に形成しつつ展開してきたという原則を考えてみるとき、その原則のひとときが来るということです。そのひとときに「カン」といってぴたりと入るようになれば、三六五日を合わせることができ、このようになる場合には天運を伴って、個人の運勢において運の良い一生がもたらされることでしょう。

では、その運の良い一生はどこに行くべきでしょうか? 国家の運勢と個人の運勢は違います。大韓民国の運勢は今…。そうではありませんか? ベトナムやラオスやクメ・ルのような国を見れば、民主世界の圏内にありながらも何故にそのように悲惨であり、運悪くも共産党にすべて食われてしまったではないか? それで運が良いといえますか? 運が悪いのです。それゆえ皆さん個人の運勢は、このような拍子に合わせて…。(七八・二七五)

自分が一〇〇の運勢を持って生まれたのに、一二〇の人生を生きるならば、そういう人の後孫は滅びるのです。人の運勢はゴムひもと同じでぴんと張っています。ですが八〇の人生を生きるならば、二〇の余裕を残すことになり、その運勢を後孫の前に相続してあげられるのです。(七八・三三三)

運命を変えることはできますが、宿命を変えることはできません。大韓民国人として生まれた事実を変えることができますか? 自分の父親の子として生まれた事実を変えることができますか? その国の主権がどんなに強く、慣習がどんなに厳しいとしても、父親と子供の関係を変更することはできません。そのように復帰の道は宿命的なのです。どちらにしても、ある一日に清算してしまわなければなりません。(一七二・五五)